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2025-04-19 05:24

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学問の領域における自主独立路線

2009-11-24 20:21

P18~19
 
 見田氏のこうした方法論的主張は、かねてからの氏の思索の発展であるとともに、また次のような意味をもっていた。
 
1950年代中葉にマルクス主義は重大な試練にさらされた。国際的にはスターリン批判であり、わが国では日本共産党の分裂の問題があった。これらの苦渋にみちた衝撃的事件は、マルクス主義理論家にさまざまな影響をあたえた。
 
あるものは自信を喪失し、マルクス主義から離脱してしまった。しかしまた、少なからぬ人びとはこれを、新しい生命の生誕の苦しみとうけとった。そしてマルクス主義とは本来、もっとすばらしいもの、もっと大多数の人びとに支持されるはずのものであるという確信のもとに、教条主義、権威主義からも、修正主義からも洗い清められた本来の姿におけるマルクス主義理論をうちたてようと心に誓った。見田氏はそうした側の一人であった。
 
見田氏の労作中の「弁証法的ドグマの色眼鏡なしに、すなおに」といった表現や、マルクスの方法は何ら奇矯なものでなく自然科学の方法と本質的に一致するものだといった強調には、上記の気持ちの一端があらわれていたのである。
 
 氏の方法論的見解そのものの当否については、もちろん今後の研究・討論にまたねばならない(たとえば概念の自己展開という誤った観念論的思考を「論理=歴史」説*と名づけることは問題をふくむと私には考えられる。唯物論は、どこまでも歴史的なもの、現実的なものを重視し、これを土台として論理を展開すべきものだからである)。とはいえ、見田氏の見解が、多くの基礎的諸問題を基本的に正しく解決しており、全体としてこの領域での今後の研究に重要な開拓者的・かつ指導的役割を演じていることはまちがいないところである。
 
 ことに見田氏が、難関にうち当ったとき外国文献の権威によりかかって糊塗するという態度を一貫して斥け、あくまでも主体的に論理を展開しぬいていることは、学問の領域における事大主義、大国追随主義の克服、自主独立路線の一模範ということができるであろう。
 
 
なおこの「論理=歴史」説という命名については、のちに見田氏自身も不適切と考え、次のように訂正されている。
 「わたしは以前拙著『資本論の方法』で、この考え方を『論理=歴史説』と名づけたが、それは直接的でせまい性格づけであった。マルクス主義の方法のヘーゲル主義化(科学の方法の基礎である分析、抽象の否定及び矛盾と反省関係との混同、を特徴とする)として性格づける方がよいと思う」(本巻64ページ)。
 
 
 
 
見田石介著作集 第1巻
見田石介氏の学問と生涯(林 直道)
大月書店

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  • No Name Ninja

弁証法的方法の本質(2)

2009-11-24 14:01

P236~239
 
 
2 論理=歴史説の典拠としてあげられるエンゲルスおよびレーニンの言葉
 
 ここで論理=歴史説によってその根拠としてしばしばあげられるエンゲルスおよびレーニンの言葉について一言しておくなら、まずエンゲルスやレーニンからこうした断片的な言葉をとり出してくることは、全体の関連をはなれた恣意的な引用だといわねばなるまい。
 
 「カール・マルクスの『経済学批判』」〔書評〕でのべられているエンゲルスの言葉はつぎのとおりである。
 
 「この論理的なとりあつかいかたは、じつは、ただ歴史的な形態と攪乱的な偶然性をはぎとった歴史的なとりあつかいかたにほかならない。
 この歴史のはじまるところから、おなじように、思想の道程がはじまらなければならず、この道程のその後の進行は、抽象的で理論的に一貫した形態での歴史的経過の映像にほかならないであろう。
 けれどもこの映像は、修正された映像であり、それぞれの契機が完全に成熟し、典型的に発展したところで観察されうることにより、現実の歴史的経過そのものが暗示する諸法則にしたがって修正されたものである」(マルクス=エンゲルス選集、補巻3、236-237ページ〔『経済学批判』、国民文庫、263-264ページ〕)。
 
 エンゲルスの言葉を引用して、『資本論』の全体の方法をいうのが、恣意的である、というのは、一つには、これはエンゲルスがとくに『経済学批判』の紹介のために言った言葉であることを、忘れているからである。
 
 『経済学批判』は、周知のように、商品と貨幣だけをとりあつかっていて、まだ資本をとりあつかっていないのであるが、この商品、貨幣という単純な流通面の社会関係の解剖は、一つの歴史的な生産様式のそれにくらべればはるかに単純である。
 
 一方、また具体的歴史的な生産様式とちがってこの関係は数千年の歴史のなかで発展してきたものである。この結果として、『経済学批判』の構成の骨組、すなわち『資本論』の第1編と同じように、貨幣の発生、貨幣の価値尺度、流通手段、蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣というその諸機能の論理的展開の順序は、本質的に歴史の順序に照応するのがその大きな特色になっているのである。
 
 これにたいして『資本論』は、歴史的な一つの生産様式を問題にしたのであり、しかもそれがその独占段階を経て歴史的使命を終えたのちにではなく、その自由主義段階において、資本の一般的本性とその本質的な機構を明らかにすることを目的としているのであるから、その方法は単純な価値形態の展開と貨幣の諸機能の展開を内容とする『経済学批判』の方法と同じ一つの方法であるにしても、その前面にあらわれる現象形態は、またちがってくる。
 
 ここでは同時的に共存する諸側面のあいだの相互前提関係を分析する仕事が、前者にくらべて、はるかに大きな比重を占めている。
 
 しかし商品、貨幣関係はどんなに簡単であろうとも、しかし一つの関係である。この同時的な関係の分析をはなれて、その発生史をみることはできないことであって、マルクスが簡単な価値形態の分析すなわちその価値概念に基づいての同時的なその二極の分析に多くの力をそそいだことは前にものべたことである。したがってエンゲルスは、この文章にすぐつづいてこのことを注意しているのである。かれはこの方法を説明してつぎのようにいっている。
 
 「この方法では、吾々は、歴史的に、事実のうえで、吾々の前にある最初の、そしてもっとも簡単な関係から、したがっていまの場合には、吾々の目のまえにある最初の経済的関係から、出発する。
 この関係を吾々は分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということがはいっている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう」(同、237〔264〕ページ)。
 
 これはマルクスの方法の完全に正確な、いっさいの誤解の余地のない、もとも平易な説明である。
 
どんなに単純であろうとも、それが発展し発生するものであるかぎり、それは同時的な二側面のあいだの関係であり、それが分析されてそれぞれが別々に考察され、その一方から他方へとすすむ論理の歩みなしには、そのものの矛盾も言いえないし、その発生も発展も言いえないこと、それがマルクスの方法の基礎をなしていることを言っているのである。
 
 したがってマルクスの方法が出来上っている商品の概念、その矛盾の概念から出発して歴史の順序にしたがってすすむかのように主張する人々が、このひきつづいて一体をなしているエンゲルスの言葉のうちの一部だけを引用するのが、どんなに勝手なやり方であるかがわかる。
 
 しかしそれらすべてにまさってはるかに重要なことは、エンゲルスがこの言葉のすぐ前にのべていることである。というのは、論理=歴史説の哲学的根底は、思惟過程を客観的過程と同一視し、主観的弁証法と客観的弁証法と同一視し、それがマルクスの唯物論の見地だと思いこんでいる点にあるが、―そしてこれは1930年前後からこんにちにいたるまでマルクス主義哲学の一部に深く影響を与えている思想である―この点を根本的に明らかにしているからである。
 
 エンゲルスは、そこでマルクスの方法の歴史的な意義について、つぎのように言っている。
 
 「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域での、ヘーゲルの真の諸発見をふくんでいる核をとり出し、かつ弁証法的方法からその観念的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡単なすがたにかえす、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また、いまもなお唯一の人である。
 マルクスの経済学批判の根底をなす方法の完成を、吾々は、その意義からいってほとんど唯物論的根本見解におとらない成果だと考える」(同、235-236〔262-263〕ページ)。
 
 つまりエンゲルスは自然および社会にたいする一般的唯物論、史的唯物論にたいして、それを科学が分析、綜合してとらえる方法あるいは思惟の運動法則を、相対的独自的なものとみ、かつこの領域においてのマルクスの業績を、それらの唯物論的根本見解にたいしておとらぬくらうのものだ、としているのである。
 
 これは、思惟の歩みが現実の歩みと同じ歩み方をするとみるのが唯物論的であると考えている論理=歴史説にたいする根本的批判ではあるまいか。
 
 
 
引用:
見田石介著作集 第4巻
 

  • No Name Ninja

弁証法的方法の本質(1)

2009-11-24 08:35

P234~236
 
 
 『資本論』の立場は、何よりも歴史的な見地を特色としている。それは資本主義的生産様式そのものを歴史的なもの、発生し消滅するものとみた点においても、またその諸モメントを発生し発展するものとみた点でも。
 
したがってその資本制的生産様式の概念的把握の方法は、何よりも発生的展開の方法である。
 
すべてそのものの発生史を明らかにしないでは、論理的とみなかったのがマルクスの特色である。
 
しかし具体的な事物はさまざまな形で同じ年齢の諸側面の対立の統一をなしている。不変資本と可変資本、資本と剰余価値、労働力の価値と労賃、第一部門と第二部門、個別資本と総資本、生産のための消費と消費のための生産、それらすべてと資本そのものの概念等々。現実の過程は、そのうえになお、可逆的、反復的な日常的、非歴史的過程をふくんでいる。売りと買い、資本の循環、循環の周期的過程等々。これらのあいだに発生的な展開をおこなうことは不可能である。
 
 一方また歴史的対象であってもその発生史を明らかにする論理は、必ずしもその客観的順序にしたがうものではない。それは賃労働と資本の起原をなす本源的蓄積がどこで明らかにされているかを考えてみてもわかることで、ここでは論理と歴史の順序は逆になっているのである。
 
 したがって、歴史的、発生的展開の方法がマルクスの方法の最大の特色であるが、そのことは、すこしもその論理の歩みが原則的に歴史の歩みに一致することを意味していないのであって、それを研究に実行することは、ただ現実の戯画をもたらすだけであろう。論理の歩みを歴史の歩みとすることは、どのようなことを意味するかは、プルードンの方法にたいするつぎのマルクスの言葉が何よりもよく示している。
 
 「あらゆる社会の生産諸関係は、一つの全体を形成する。(ところが)プルードン氏は、経済的諸関係をば、それと同数の社会的諸局面とみなすのであり、そしてこの社会的諸局面は、相互に他を生み出しあうものであって、定立から反定立が生ずるのと同様に、一つのものが他の一つのものから生じ、それらの論理的継起のなかに人類の非人格的理性を実現するのである。
 この方法のなかにあるただ一つの欠陥といえば、それは、これらの諸局面のうちの一つだけをいざ検討しようとするとき、プルードン氏は、社会の他のすべての関係の力をかりずには、それを説明できないということであり、しかもなお、これらの関係を彼は自己の弁証法的運動によってまだ発生させていないのである。
 ついで、プルードン氏が純粋理性の力によって他の諸局面の産出にとりかかると、彼はあたかもそれが生まれたばかりの赤ん坊であるかのように取扱い、それらが最初の局面と同じ年齢であることを忘れてしまうのである。
 それゆえ、彼にとってすべての経済的進化の基礎である価値の構成に到達するためには、彼は分業、競争等々なしにすますことができなかったのである。ところが、系列のなかにも、プルードン氏の悟性のなかにも、論理的継起のなかにも、これらの諸関係はまだ全然存していなかったのである。
 経済学の諸カテゴリーをもって観念体系の工作物がつくりあげられることで、社会組織の有機的諸環は、ばらばらにされてしまい、社会のさまざまの構成要素は自立させられ、ちょうどそれだけの数の、あいついで現われてくる社会に変えられる。じっさいどうしたら、運動の、継起の、時間の、たんなる論理的公式をもって、あらゆる関係がそのなかで同時に共存し、相互にささえあうところの社会全体を、説明しうるのであろうか?」(『哲学の貧困』、マルクス=エンゲルス全集、第四巻、134-135ページ)
 
 したがって『資本論』の方法についての一見解としての論理=歴史説はプルードン主義である。そして一般的、理論的にいえばこの考え方は、具体的なものの分析と概念的把握を否定するのであるから、論理を歴史記述に解消する歴史的実証主義である。マルクスでは、「抽象的な諸規定は、部分的には歴史的にも先行して現われる」だけである。
 
 この点からみれば、ソヴエトの『経済学教科書』で、マルクスの方法について、「マルクスの方法は、経済学のもっとも簡単なカテゴリーから、より複雑なカテゴリーへしだいにさかのぼっていくことであるが、それは、社会が低い段階から高い段階へ上向線をたどってしだいに発展していくのに対応している」(増補改訂版、第一分冊、13ページ)、としているのは誤りであろう。
 
 
 
 
引用:
見田石介著作集 第4巻
 

  • No Name Ninja

論理学の構成

2009-10-31 17:22


P84~85

 

 存在論、本質論、概念論は、またそれぞれのうちに含まれている存在の「関係」によって区別せられる。これは弁証法とこの三部門との連関の場合よりはやや厳密であるが、やはり強いてそれを整合的にしようとすることはスコラ的である。

 

 存在論に於ける存在は、直接的な存在であり、何らの媒介をも経ていない。それ故そこに於ける存在は、全く単純(一重)であり、自己内に何らの区別をも有っていない。それ故存在は自己内では「関係」を有たない。有ちようがないのだ。また直接的であるため、存在は他のものに対しての関係をも有たない。相互に没交渉である。それ故存在論には「関係」は全然ない。

 

 次の本質に於いては存在は現象となり、現象の背後に存在するもの、「本質」が現われるためここにははじめて関係が成立する。

 

物と本質、内部と外部、述語と主語等々、存在はすべての場合にその背後のものをもち、それに帰属するものとされる。それ故本質論に於いて生ずる関係は、主従の関係、或は内属の関係である。

 

だがここではまだ物の内部の関係であるが、一つのものと他の物との関係、一つの主語と他の主語との関係、即ち対他的に同等の関係は生れない。これは概念論に於いて始めてあり得るのである。即ち本質論に於ける主従の関係は、その最高の範疇である交互作用に於いて破られて同等の関係となり、これを媒介として、真実の同等関係を有する概念論が始るのである。

 

以上によって解るように、存在論、本質論、概念論は、それぞれの含む存在の関係によっても関連づけられる。この場合最初の存在論の没関係に於いては、存在は相互に没交渉であるため、相互に独立的である。だが第二の内属の関係に於いては、存在は主従の関係第一のものが否定せられる。だがこれは更に否定せられて最初の存在と存在との独立的関係が回復せられる。これは丁度『精神現象学』の自己意識、理性の段階に於いて、人間が自覚を得てゆく過程と相似的である。ここでもやはり否定の否定の法則が支配している。

 

 

 

 

引用:

見田石介著作集 補巻

大月書店
 

  • No Name Ninja

ヘーゲルから何を学ぶべきか(2)

2009-10-31 16:49

P22~24

 

 ヘーゲルから学ぶべきものは、弁証法である。ただ弁証法に尽きていると言ってよい。だが弁証法は出来上ったものとして与えられているのでもなければ、彼の哲学のあらゆる部面に於いてただ一つの形式で存在するのでもなく、叙述の過程に、さまざまの形式に於いて存在している。

 

 ヘーゲルは自己の弁証法的方法を、実に至る所でカントの悟性的方法に対比せしめて明かにしているが、その場合は悟性的方法は対立物を絶対に対立させるものとして、また弁証法はかかる対立の同一、或は相互浸透の法則として、現われる。この意味の弁証法は哲学の根本的な問題である認識論に於いて、もっともその威力を発揮し、カントに対するヘーゲルの優越の決定的な原因となっている。

 

それ故われわれはヘーゲルに於いて、何よりもまず具体的な適用に於けるこの法則を学ばねばならぬ。カントの認識論に於いては、感性と悟性、素材と形式、物自体と現象等々が絶対的に分たれ、そのためにカントはさまざまな困難に陥った。

 

ヘーゲルはこれらの分離を単なる思惟の抽象にすぎず、対立項は現実にはそれだけで存在し得ないことを明かにして、認識の原理的な問題を解決した。またカント的な悟性的思惟に於いては、具体的な認識と認識の理論即ち認識に於ける歴史と理論、或は実践と理論、これらは相互に絶対に区別せらるべき対立物である。

 

だがヘーゲルはこれらの対立物は本来同一物に外ならぬこと、それぞれはそれ自身としては存在し得ないことを、真に全面的徹底的にではなかったにしろ、天才的に明かにした。就中彼によって始めて行われた理論と実践との統一は注目すべきものである。これらのことによってヘーゲルは、認識論史、哲学史の上に画期的な業績を成し遂げたのである。

 

 対立物の同一の法則は、また論理学の内部に於いても見事な適用を示している。即ち普通絶対的に区別されているあらゆる対立的範疇の相互浸透としてである。

 

有と無、質と量、或は内部と外部、本質と現象、物と性質、或は可能と現実、偶然と必然、原因と結果等々はそれぞれ相互浸透の事実が示され、その本質が徹底的に明かにされている。

 

 対立物の同一の法則は、かくあらゆる対立が同一であることを示すと共に、ヘーゲルに於いては逆にまた、あらゆる具体的な同一物は対立物であること、対立をうちに含んでいる故に、それが具体的な・動くものであることを示している。即ちヘーゲルは矛盾があらゆる現実的なものの魂であることを発見したのである。この点に弁証法と形式論理学との本質的な相違が横たわっている。

 

形式論理学によれば矛盾は主観的な誤謬である。だがヘーゲルに於いては、矛盾は客観的であり、物は矛盾する故に運動するのである。ヘーゲルはあらゆる物の発生、消滅、他の物への転化を、一貫してそのものの内部矛盾によって説明している。

 

或る物は如何なる場合も、外部からの理由、外部からの干渉によっては、他の物に転化していない。全宇宙は自己運動の体系である。彼の全哲学もまた自己運動の体系である。この事はただあらゆる物は対立物・矛盾物であるが故に可能であったのだ。これを明かにすることがヘーゲル哲学の目的であったとも言い得る。それ故われわれがヘーゲルに於いて最も徹底的に学ぶべき点の一つは、この点である。

 

 弁証法は次に特に発展として、歴史の法則であることが示されている。これは歴史哲学、哲学史のうちに彼が示しているところである。現在を永遠化する保守的な歴史観に対して、意識的に歴史に発展の概念を導入したことは、革命的ことであった。

 

しかもヘーゲルが、単なる量的増大は何らの発展ではないこと、即ち漸次性の中断、飛躍による発展が真の発展となることを示したことは、それ以前の歴史の発展的理解と区別せらるべき極めて重要な点である。われわれはヘーゲルからこの発展概念について、先の対立物の同一の法則に劣らぬ位、無限に学ばなければならぬ。

 

ただ発展概念は彼によっては精神の歴史にのみ見出されて、自然は時間的な発展を行わぬものにされている。これは疑いもなく彼の欠陥であるが、自然の場合も移行(これも弁証法の直接的な一つの形式である)によって自然の諸現象間の、また諸自然科学相互間及びそれらの内部の諸領域間の必然的連関を示すことを試み、自然が有機的な全体であること、従って自然認識もまた統一ある全体でなければならぬことを示しているのである。

 

ヘーゲルの時代の不十分な化学の知識を以て、既に元素が偶然的な序列に放置さるべきではなく、それが有つべき量的関係によって規則的に排列せらるべきこと、及び元素は決して永遠不変ではなく、他のものに現実的に変化することを洞察し、後の諸発見を予見したのは、自然哲学の領域に於ける彼の弁証法の一つの輝かしい勝利である。

 

 弁証法はまた否定の否定の法則として、ヘーゲルの全哲学及び各哲学的科学を構成する支柱となっている。

 

彼の全体系に於いては、論理―自然―精神、

『論理学』においては、存在―本質―概念、

『精神現象学』に於いては、意識―自己意識―理性、

『美学』に於いては、象徴的芸術―古典的芸術―浪漫的芸術等々、

第二は第一の否定、第三は第二の否定であり、第一のものに復帰している。

 

否定の否定の法則によってヘーゲルのあらゆる部門は「必然的」に整然と組織づけられている。この三分法は多くの場合図式化し、所謂「ヘーゲルの体系」として内容を歪曲したものである。その限りはこれは学ぶべきものではない。だがヘーゲルにとっては否定の法則は、その科学の単なる論理的な区分原理ではなく、同時その内容の現象学的・歴史的発展の原理である。「歴史的」と「論理的」との同一というヘーゲルの最重要な思想は、実に否定の否定の法則を媒介として成立しているのである。さすればこれはわれわれの徹底的な研究対象でなければなければならぬ。

 

 弁証法は客観的世界の法則である。従って弁証法的であることは客観的な事柄そのものの法則に従おうとすることである。

 

ヘーゲルの全哲学を通じて見られる一つの特色は、それが飽くまで客観的であることである。そのため彼は主観的な必然性でも、外面的な必然性でもなく、事柄それ自体の必然性に従わなければならぬと言っている。

 

彼の哲学に於いては、存在は結局思惟であり、自然は理念の他在である。しかしこのことは決して、自然及び歴史が人間(有限精神)から独立に存在していることを否定しているのではない。また自然及び歴史は論理的理念の具体化であるといわれる場合、この神秘化された理念も、自然及び歴史にとってはよそのものではなく、また自分勝手な行動をなし得るものでもない。それは自然及び歴史のもつ客観的法則そのものに外ならなかったのだ。あらゆる観念論者のうちにあって、彼ほど客観的であったものはないと言える。彼は多くの唯物論者よりも更に唯物論的であった。

 

 

 

引用:

見田石介著作集 補巻

大月書店
 

  • No Name Ninja

ヘーゲルから何を学ぶべきか(1)

2009-10-30 07:21

P21~22

 

 われわれは以上に挙げたもの、及びそれら以外の多くの卑俗化と歪曲とからヘーゲルを浄め、歴史的に正しいヘーゲルを理解することが必要である。しかし歴史的なヘーゲルの正しい理解ということは、何処までも一応必要である。

 

われわれはヘーゲルのためにヘーゲルを理解するのではなく、われわれの前進のためにヘーゲルを理解するのである。ヘーゲルをそれ自身として理解することを主なる目的とするならば、それはスコラ哲学となる。

 

例えば『精神現象学』と『論理学』とは如何なる関係にあるかということを、「われわれに対するヘーゲル」という観点を殆んど全く離れて、ヘーゲル自身の立場から詮索することに没頭ものがある。一般にカント及びヘーゲルに対するかような仕事が、現在の一部の哲学者の殆んど唯一の任務となっている。

 

かかる意味の理解とは、カント或いはヘーゲルの体系のうちに見出される矛盾をその内部に於いて除去し、それを整合的なものにしようとする企てであるが、これは不可能であるだろうし、たとえ可能であっても無益である。というのは一つの哲学体系の矛盾は、むしろそれ自身が超えられんがための餌なのであるから。ヘーゲル自身の歴史的に正しい理解も、むしろヘーゲルを超え、それに批判的となることによって本当になし遂げられるだろう。

 

 いずれにしろわれわれは単にヘーゲルを理解するのではなく、われわれの認識を進展せしめるためにヘーゲルからよきものを摂取するのでなければならぬ。そのためには、ヘーゲル哲学は、古今に稀な宝庫である。

 

このよきものとは、何々であるか、これは本書の全内容が示すべきものであるが、今読者の便宜のためにそれを予め簡単にまとめて次に示すこととしよう。だが注意しなければならないのは、ヘーゲル哲学に於けるよきものとあしきものとは、嚢中の赤玉と白玉の如くそれ自身として区別されているものではなく、よきものはつねにあしきものに纏われていることである。それ故ヘーゲルから何を学ぶべきかは、ヘーゲルから如何に学ぶべきかと結びついていなければならぬ。

 

 

 

引用:

見田石介著作集 補巻

大月書店
 

  • No Name Ninja