P234~236
『資本論』の立場は、何よりも歴史的な見地を特色としている。それは資本主義的生産様式そのものを歴史的なもの、発生し消滅するものとみた点においても、またその諸モメントを発生し発展するものとみた点でも。
したがってその資本制的生産様式の概念的把握の方法は、何よりも発生的展開の方法である。
すべてそのものの発生史を明らかにしないでは、論理的とみなかったのがマルクスの特色である。
しかし具体的な事物はさまざまな形で同じ年齢の諸側面の対立の統一をなしている。不変資本と可変資本、資本と剰余価値、労働力の価値と労賃、第一部門と第二部門、個別資本と総資本、生産のための消費と消費のための生産、それらすべてと資本そのものの概念等々。現実の過程は、そのうえになお、可逆的、反復的な日常的、非歴史的過程をふくんでいる。売りと買い、資本の循環、循環の周期的過程等々。これらのあいだに発生的な展開をおこなうことは不可能である。
一方また歴史的対象であってもその発生史を明らかにする論理は、必ずしもその客観的順序にしたがうものではない。それは賃労働と資本の起原をなす本源的蓄積がどこで明らかにされているかを考えてみてもわかることで、ここでは論理と歴史の順序は逆になっているのである。
したがって、歴史的、発生的展開の方法がマルクスの方法の最大の特色であるが、そのことは、すこしもその論理の歩みが原則的に歴史の歩みに一致することを意味していないのであって、それを研究に実行することは、ただ現実の戯画をもたらすだけであろう。論理の歩みを歴史の歩みとすることは、どのようなことを意味するかは、プルードンの方法にたいするつぎのマルクスの言葉が何よりもよく示している。
「あらゆる社会の生産諸関係は、一つの全体を形成する。(ところが)プルードン氏は、経済的諸関係をば、それと同数の社会的諸局面とみなすのであり、そしてこの社会的諸局面は、相互に他を生み出しあうものであって、定立から反定立が生ずるのと同様に、一つのものが他の一つのものから生じ、それらの論理的継起のなかに人類の非人格的理性を実現するのである。
この方法のなかにあるただ一つの欠陥といえば、それは、これらの諸局面のうちの一つだけをいざ検討しようとするとき、プルードン氏は、社会の他のすべての関係の力をかりずには、それを説明できないということであり、しかもなお、これらの関係を彼は自己の弁証法的運動によってまだ発生させていないのである。
ついで、プルードン氏が純粋理性の力によって他の諸局面の産出にとりかかると、彼はあたかもそれが生まれたばかりの赤ん坊であるかのように取扱い、それらが最初の局面と同じ年齢であることを忘れてしまうのである。
それゆえ、彼にとってすべての経済的進化の基礎である価値の構成に到達するためには、彼は分業、競争等々なしにすますことができなかったのである。ところが、系列のなかにも、プルードン氏の悟性のなかにも、論理的継起のなかにも、これらの諸関係はまだ全然存していなかったのである。
経済学の諸カテゴリーをもって観念体系の工作物がつくりあげられることで、社会組織の有機的諸環は、ばらばらにされてしまい、社会のさまざまの構成要素は自立させられ、ちょうどそれだけの数の、あいついで現われてくる社会に変えられる。じっさいどうしたら、運動の、継起の、時間の、たんなる論理的公式をもって、あらゆる関係がそのなかで同時に共存し、相互にささえあうところの社会全体を、説明しうるのであろうか?」(『哲学の貧困』、マルクス=エンゲルス全集、第四巻、134-135ページ)
したがって『資本論』の方法についての一見解としての論理=歴史説はプルードン主義である。そして一般的、理論的にいえばこの考え方は、具体的なものの分析と概念的把握を否定するのであるから、論理を歴史記述に解消する歴史的実証主義である。マルクスでは、「抽象的な諸規定は、部分的には歴史的にも先行して現われる」だけである。
この点からみれば、ソヴエトの『経済学教科書』で、マルクスの方法について、「マルクスの方法は、経済学のもっとも簡単なカテゴリーから、より複雑なカテゴリーへしだいにさかのぼっていくことであるが、それは、社会が低い段階から高い段階へ上向線をたどってしだいに発展していくのに対応している」(増補改訂版、第一分冊、13ページ)、としているのは誤りであろう。
引用:
見田石介著作集 第4巻
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