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科学的社会主義の経済学や哲学を学ぶ
P22~24
ヘーゲルから学ぶべきものは、弁証法である。ただ弁証法に尽きていると言ってよい。だが弁証法は出来上ったものとして与えられているのでもなければ、彼の哲学のあらゆる部面に於いてただ一つの形式で存在するのでもなく、叙述の過程に、さまざまの形式に於いて存在している。
ヘーゲルは自己の弁証法的方法を、実に至る所でカントの悟性的方法に対比せしめて明かにしているが、その場合は悟性的方法は対立物を絶対に対立させるものとして、また弁証法はかかる対立の同一、或は相互浸透の法則として、現われる。この意味の弁証法は哲学の根本的な問題である認識論に於いて、もっともその威力を発揮し、カントに対するヘーゲルの優越の決定的な原因となっている。
それ故われわれはヘーゲルに於いて、何よりもまず具体的な適用に於けるこの法則を学ばねばならぬ。カントの認識論に於いては、感性と悟性、素材と形式、物自体と現象等々が絶対的に分たれ、そのためにカントはさまざまな困難に陥った。
ヘーゲルはこれらの分離を単なる思惟の抽象にすぎず、対立項は現実にはそれだけで存在し得ないことを明かにして、認識の原理的な問題を解決した。またカント的な悟性的思惟に於いては、具体的な認識と認識の理論即ち認識に於ける歴史と理論、或は実践と理論、これらは相互に絶対に区別せらるべき対立物である。
だがヘーゲルはこれらの対立物は本来同一物に外ならぬこと、それぞれはそれ自身としては存在し得ないことを、真に全面的徹底的にではなかったにしろ、天才的に明かにした。就中彼によって始めて行われた理論と実践との統一は注目すべきものである。これらのことによってヘーゲルは、認識論史、哲学史の上に画期的な業績を成し遂げたのである。
対立物の同一の法則は、また論理学の内部に於いても見事な適用を示している。即ち普通絶対的に区別されているあらゆる対立的範疇の相互浸透としてである。
有と無、質と量、或は内部と外部、本質と現象、物と性質、或は可能と現実、偶然と必然、原因と結果等々はそれぞれ相互浸透の事実が示され、その本質が徹底的に明かにされている。
対立物の同一の法則は、かくあらゆる対立が同一であることを示すと共に、ヘーゲルに於いては逆にまた、あらゆる具体的な同一物は対立物であること、対立をうちに含んでいる故に、それが具体的な・動くものであることを示している。即ちヘーゲルは矛盾があらゆる現実的なものの魂であることを発見したのである。この点に弁証法と形式論理学との本質的な相違が横たわっている。
形式論理学によれば矛盾は主観的な誤謬である。だがヘーゲルに於いては、矛盾は客観的であり、物は矛盾する故に運動するのである。ヘーゲルはあらゆる物の発生、消滅、他の物への転化を、一貫してそのものの内部矛盾によって説明している。
或る物は如何なる場合も、外部からの理由、外部からの干渉によっては、他の物に転化していない。全宇宙は自己運動の体系である。彼の全哲学もまた自己運動の体系である。この事はただあらゆる物は対立物・矛盾物であるが故に可能であったのだ。これを明かにすることがヘーゲル哲学の目的であったとも言い得る。それ故われわれがヘーゲルに於いて最も徹底的に学ぶべき点の一つは、この点である。
弁証法は次に特に発展として、歴史の法則であることが示されている。これは歴史哲学、哲学史のうちに彼が示しているところである。現在を永遠化する保守的な歴史観に対して、意識的に歴史に発展の概念を導入したことは、革命的ことであった。
しかもヘーゲルが、単なる量的増大は何らの発展ではないこと、即ち漸次性の中断、飛躍による発展が真の発展となることを示したことは、それ以前の歴史の発展的理解と区別せらるべき極めて重要な点である。われわれはヘーゲルからこの発展概念について、先の対立物の同一の法則に劣らぬ位、無限に学ばなければならぬ。
ただ発展概念は彼によっては精神の歴史にのみ見出されて、自然は時間的な発展を行わぬものにされている。これは疑いもなく彼の欠陥であるが、自然の場合も移行(これも弁証法の直接的な一つの形式である)によって自然の諸現象間の、また諸自然科学相互間及びそれらの内部の諸領域間の必然的連関を示すことを試み、自然が有機的な全体であること、従って自然認識もまた統一ある全体でなければならぬことを示しているのである。
ヘーゲルの時代の不十分な化学の知識を以て、既に元素が偶然的な序列に放置さるべきではなく、それが有つべき量的関係によって規則的に排列せらるべきこと、及び元素は決して永遠不変ではなく、他のものに現実的に変化することを洞察し、後の諸発見を予見したのは、自然哲学の領域に於ける彼の弁証法の一つの輝かしい勝利である。
弁証法はまた否定の否定の法則として、ヘーゲルの全哲学及び各哲学的科学を構成する支柱となっている。
彼の全体系に於いては、論理―自然―精神、
『論理学』においては、存在―本質―概念、
『精神現象学』に於いては、意識―自己意識―理性、
『美学』に於いては、象徴的芸術―古典的芸術―浪漫的芸術等々、
第二は第一の否定、第三は第二の否定であり、第一のものに復帰している。
否定の否定の法則によってヘーゲルのあらゆる部門は「必然的」に整然と組織づけられている。この三分法は多くの場合図式化し、所謂「ヘーゲルの体系」として内容を歪曲したものである。その限りはこれは学ぶべきものではない。だがヘーゲルにとっては否定の法則は、その科学の単なる論理的な区分原理ではなく、同時その内容の現象学的・歴史的発展の原理である。「歴史的」と「論理的」との同一というヘーゲルの最重要な思想は、実に否定の否定の法則を媒介として成立しているのである。さすればこれはわれわれの徹底的な研究対象でなければなければならぬ。
弁証法は客観的世界の法則である。従って弁証法的であることは客観的な事柄そのものの法則に従おうとすることである。
ヘーゲルの全哲学を通じて見られる一つの特色は、それが飽くまで客観的であることである。そのため彼は主観的な必然性でも、外面的な必然性でもなく、事柄それ自体の必然性に従わなければならぬと言っている。
彼の哲学に於いては、存在は結局思惟であり、自然は理念の他在である。しかしこのことは決して、自然及び歴史が人間(有限精神)から独立に存在していることを否定しているのではない。また自然及び歴史は論理的理念の具体化であるといわれる場合、この神秘化された理念も、自然及び歴史にとってはよそのものではなく、また自分勝手な行動をなし得るものでもない。それは自然及び歴史のもつ客観的法則そのものに外ならなかったのだ。あらゆる観念論者のうちにあって、彼ほど客観的であったものはないと言える。彼は多くの唯物論者よりも更に唯物論的であった。
引用:
見田石介著作集 補巻
大月書店