P18~19
見田氏のこうした方法論的主張は、かねてからの氏の思索の発展であるとともに、また次のような意味をもっていた。
1950年代中葉にマルクス主義は重大な試練にさらされた。国際的にはスターリン批判であり、わが国では日本共産党の分裂の問題があった。これらの苦渋にみちた衝撃的事件は、マルクス主義理論家にさまざまな影響をあたえた。
あるものは自信を喪失し、マルクス主義から離脱してしまった。しかしまた、少なからぬ人びとはこれを、新しい生命の生誕の苦しみとうけとった。そしてマルクス主義とは本来、もっとすばらしいもの、もっと大多数の人びとに支持されるはずのものであるという確信のもとに、教条主義、権威主義からも、修正主義からも洗い清められた本来の姿におけるマルクス主義理論をうちたてようと心に誓った。見田氏はそうした側の一人であった。
見田氏の労作中の「弁証法的ドグマの色眼鏡なしに、すなおに」といった表現や、マルクスの方法は何ら奇矯なものでなく自然科学の方法と本質的に一致するものだといった強調には、上記の気持ちの一端があらわれていたのである。
氏の方法論的見解そのものの当否については、もちろん今後の研究・討論にまたねばならない(たとえば概念の自己展開という誤った観念論的思考を「論理=歴史」説*と名づけることは問題をふくむと私には考えられる。唯物論は、どこまでも歴史的なもの、現実的なものを重視し、これを土台として論理を展開すべきものだからである)。とはいえ、見田氏の見解が、多くの基礎的諸問題を基本的に正しく解決しており、全体としてこの領域での今後の研究に重要な開拓者的・かつ指導的役割を演じていることはまちがいないところである。
ことに見田氏が、難関にうち当ったとき外国文献の権威によりかかって糊塗するという態度を一貫して斥け、あくまでも主体的に論理を展開しぬいていることは、学問の領域における事大主義、大国追随主義の克服、自主独立路線の一模範ということができるであろう。
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なおこの「論理=歴史」説という命名については、のちに見田氏自身も不適切と考え、次のように訂正されている。
「わたしは以前拙著『資本論の方法』で、この考え方を『論理=歴史説』と名づけたが、それは直接的でせまい性格づけであった。マルクス主義の方法のヘーゲル主義化(科学の方法の基礎である分析、抽象の否定及び矛盾と反省関係との混同、を特徴とする)として性格づける方がよいと思う」(本巻64ページ)。
見田石介著作集 第1巻
見田石介氏の学問と生涯(林 直道)
大月書店
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