P236~239
2 論理=歴史説の典拠としてあげられるエンゲルスおよびレーニンの言葉
ここで論理=歴史説によってその根拠としてしばしばあげられるエンゲルスおよびレーニンの言葉について一言しておくなら、まずエンゲルスやレーニンからこうした断片的な言葉をとり出してくることは、全体の関連をはなれた恣意的な引用だといわねばなるまい。
「カール・マルクスの『経済学批判』」〔書評〕でのべられているエンゲルスの言葉はつぎのとおりである。
「この論理的なとりあつかいかたは、じつは、ただ歴史的な形態と攪乱的な偶然性をはぎとった歴史的なとりあつかいかたにほかならない。
この歴史のはじまるところから、おなじように、思想の道程がはじまらなければならず、この道程のその後の進行は、抽象的で理論的に一貫した形態での歴史的経過の映像にほかならないであろう。
けれどもこの映像は、修正された映像であり、それぞれの契機が完全に成熟し、典型的に発展したところで観察されうることにより、現実の歴史的経過そのものが暗示する諸法則にしたがって修正されたものである」(マルクス=エンゲルス選集、補巻3、236-237ページ〔『経済学批判』、国民文庫、263-264ページ〕)。
エンゲルスの言葉を引用して、『資本論』の全体の方法をいうのが、恣意的である、というのは、一つには、これはエンゲルスがとくに『経済学批判』の紹介のために言った言葉であることを、忘れているからである。
『経済学批判』は、周知のように、商品と貨幣だけをとりあつかっていて、まだ資本をとりあつかっていないのであるが、この商品、貨幣という単純な流通面の社会関係の解剖は、一つの歴史的な生産様式のそれにくらべればはるかに単純である。
一方、また具体的歴史的な生産様式とちがってこの関係は数千年の歴史のなかで発展してきたものである。この結果として、『経済学批判』の構成の骨組、すなわち『資本論』の第1編と同じように、貨幣の発生、貨幣の価値尺度、流通手段、蓄蔵貨幣、支払手段、世界貨幣というその諸機能の論理的展開の順序は、本質的に歴史の順序に照応するのがその大きな特色になっているのである。
これにたいして『資本論』は、歴史的な一つの生産様式を問題にしたのであり、しかもそれがその独占段階を経て歴史的使命を終えたのちにではなく、その自由主義段階において、資本の一般的本性とその本質的な機構を明らかにすることを目的としているのであるから、その方法は単純な価値形態の展開と貨幣の諸機能の展開を内容とする『経済学批判』の方法と同じ一つの方法であるにしても、その前面にあらわれる現象形態は、またちがってくる。
ここでは同時的に共存する諸側面のあいだの相互前提関係を分析する仕事が、前者にくらべて、はるかに大きな比重を占めている。
しかし商品、貨幣関係はどんなに簡単であろうとも、しかし一つの関係である。この同時的な関係の分析をはなれて、その発生史をみることはできないことであって、マルクスが簡単な価値形態の分析すなわちその価値概念に基づいての同時的なその二極の分析に多くの力をそそいだことは前にものべたことである。したがってエンゲルスは、この文章にすぐつづいてこのことを注意しているのである。かれはこの方法を説明してつぎのようにいっている。
「この方法では、吾々は、歴史的に、事実のうえで、吾々の前にある最初の、そしてもっとも簡単な関係から、したがっていまの場合には、吾々の目のまえにある最初の経済的関係から、出発する。
この関係を吾々は分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということがはいっている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれてくる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう」(同、237〔264〕ページ)。
これはマルクスの方法の完全に正確な、いっさいの誤解の余地のない、もとも平易な説明である。
どんなに単純であろうとも、それが発展し発生するものであるかぎり、それは同時的な二側面のあいだの関係であり、それが分析されてそれぞれが別々に考察され、その一方から他方へとすすむ論理の歩みなしには、そのものの矛盾も言いえないし、その発生も発展も言いえないこと、それがマルクスの方法の基礎をなしていることを言っているのである。
したがってマルクスの方法が出来上っている商品の概念、その矛盾の概念から出発して歴史の順序にしたがってすすむかのように主張する人々が、このひきつづいて一体をなしているエンゲルスの言葉のうちの一部だけを引用するのが、どんなに勝手なやり方であるかがわかる。
しかしそれらすべてにまさってはるかに重要なことは、エンゲルスがこの言葉のすぐ前にのべていることである。というのは、論理=歴史説の哲学的根底は、思惟過程を客観的過程と同一視し、主観的弁証法と客観的弁証法と同一視し、それがマルクスの唯物論の見地だと思いこんでいる点にあるが、―そしてこれは1930年前後からこんにちにいたるまでマルクス主義哲学の一部に深く影響を与えている思想である―この点を根本的に明らかにしているからである。
エンゲルスは、そこでマルクスの方法の歴史的な意義について、つぎのように言っている。
「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域での、ヘーゲルの真の諸発見をふくんでいる核をとり出し、かつ弁証法的方法からその観念的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡単なすがたにかえす、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また、いまもなお唯一の人である。
マルクスの経済学批判の根底をなす方法の完成を、吾々は、その意義からいってほとんど唯物論的根本見解におとらない成果だと考える」(同、235-236〔262-263〕ページ)。
つまりエンゲルスは自然および社会にたいする一般的唯物論、史的唯物論にたいして、それを科学が分析、綜合してとらえる方法あるいは思惟の運動法則を、相対的独自的なものとみ、かつこの領域においてのマルクスの業績を、それらの唯物論的根本見解にたいしておとらぬくらうのものだ、としているのである。
これは、思惟の歩みが現実の歩みと同じ歩み方をするとみるのが唯物論的であると考えている論理=歴史説にたいする根本的批判ではあるまいか。
引用:
見田石介著作集 第4巻
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