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科学的社会主義の経済学や哲学を学ぶ
P84~85
存在論、本質論、概念論は、またそれぞれのうちに含まれている存在の「関係」によって区別せられる。これは弁証法とこの三部門との連関の場合よりはやや厳密であるが、やはり強いてそれを整合的にしようとすることはスコラ的である。
存在論に於ける存在は、直接的な存在であり、何らの媒介をも経ていない。それ故そこに於ける存在は、全く単純(一重)であり、自己内に何らの区別をも有っていない。それ故存在は自己内では「関係」を有たない。有ちようがないのだ。また直接的であるため、存在は他のものに対しての関係をも有たない。相互に没交渉である。それ故存在論には「関係」は全然ない。
次の本質に於いては存在は現象となり、現象の背後に存在するもの、「本質」が現われるためここにははじめて関係が成立する。
物と本質、内部と外部、述語と主語等々、存在はすべての場合にその背後のものをもち、それに帰属するものとされる。それ故本質論に於いて生ずる関係は、主従の関係、或は内属の関係である。
だがここではまだ物の内部の関係であるが、一つのものと他の物との関係、一つの主語と他の主語との関係、即ち対他的に同等の関係は生れない。これは概念論に於いて始めてあり得るのである。即ち本質論に於ける主従の関係は、その最高の範疇である交互作用に於いて破られて同等の関係となり、これを媒介として、真実の同等関係を有する概念論が始るのである。
以上によって解るように、存在論、本質論、概念論は、それぞれの含む存在の関係によっても関連づけられる。この場合最初の存在論の没関係に於いては、存在は相互に没交渉であるため、相互に独立的である。だが第二の内属の関係に於いては、存在は主従の関係第一のものが否定せられる。だがこれは更に否定せられて最初の存在と存在との独立的関係が回復せられる。これは丁度『精神現象学』の自己意識、理性の段階に於いて、人間が自覚を得てゆく過程と相似的である。ここでもやはり否定の否定の法則が支配している。
引用:
見田石介著作集 補巻
大月書店