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古典派経済学とマルクス(2)

2009-12-07 11:09


P27~29
 
【スミスの混乱を捨て去る】
 
 デービッド・リカードは、ユダヤ人の証券仲買人エイブラハム・リカードを父に、1772年ロンドンで生まれました。はやくも14歳の時から証券取引所ではたらいて財をなした後、1817年ごろには証券仲買人の仕事から引退し、経済学研究に専念しています。また1819年から無党派の国会議員にもなっています。
 
 リカードの経済学への最大の貢献は、スミスの労働価値論をいっそう純化したことであるといえましょう。
 
彼は『経済学と課税の原理』(1817年)第1章の冒頭で断言しています。「貨物(財貨)の価値」は、「その生産に必要な相対的労働量によって定まり、その労働に対して支払われる報酬の大小によっては定まらない」と。この文章の前半部はスミスへの共感であり、後半部はスミスへの批判です。
 
 スミスは、ある場合には前半部の投下労働説にたちながら、他の場合には後半部の支配労働説にたっていたといえましょう。
 
 支配労働説は、商品の価値はその商品の購買・支配する労働の分量によって決まるとする説であるといえます。
 
この説によれば、商品によって購買または支配される労働が価値の尺度だということになります。ところが商品と労働が購買され交換されるということは、それぞれが価値をもっているからできるわけです。したがって支配労働説は価値を説明するのに価値を前提としておりますから、すこしも価値を説明したことにならないのです。
 
 リカードは、この説が労働を金銀のような価値尺度とする点を批判して、「貨物が支配する労働」の分量は比較される貨物と同様に千変万化すると述べています。リカードはスミスの混乱を捨て去り、労働価値説をまもりぬいたのです。
 
 けれども、スミスの混乱には理由がありました。スミスは、商品生産によって、私的労働が社会的労働に転化することを感づいていたのです。商品生産のもとでは商品の使用価値を決定するものは投下された個人的労働の分量ではなく、その労働が交換によってもつところの、すなわち、社会的労働の資格によってもつところの分量だと考えていたのです。
 
時代の移行期に生きていたスミスは、商品生産以前の社会と商品生産社会とを区別し、後者の分析が経済学の課題だと考えていました。
 
しかし、商品生産社会を当然のこと、永遠のことと信じたリカードはその歴史性をまったく考えることができなかったのです。したがって、リカードはスミスを純化させたとはいえても、発展させたとはいえないのです。
 
 
 
引用:
経済学との出会い  平野喜一郎著
青木書店 1984年
 
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  • No Name Ninja

古典派経済学とマルクス(1)

2009-12-07 10:41


P81~82
 
 一般的定式の矛盾にあらわれた理論と現実との矛盾、すなわち、労働価値説と自己増殖する資本という事実との矛盾は古典派経済学を理論的に崩壊させた要因の一つであった。
 
 まず、商品の交換関係は労働の交換関係であることを確信していたスミスは、事実上、労働者と資本家とのあいだの交換は、より多くの労働とより少ない労働との交換だと考え、利潤や地代が労働者のつくりだす価値の不払い部分であることを知っていた。
 
だが、この事実はスミスをまどわせ混乱させた。それは、この事実がスミスが一方で確信してやまない労働価値説と矛盾するからである。この矛盾につきあたったスミスは、労働価値説が妥当する時期を資本が蓄積される以前に限ってしまう。昔は正しかったが今はもう通用しない、というわけである。
 
 このようなスミスの考え方にたいして、昔も今も、資本の蓄積以前も以後も、労働価値説は正しいと主張したのはリカードである。その際、リカードはスミスをなやませた問題の重大さに気づかず、交換を一般の商品相互の交換にかぎり、労働者と資本家とのあいだの交換を労働による価値規定の原則からは除いてしまった。
 
 労働価値説を一貫してつらぬいたことは、スミスにたいするリカードの理論的優位をしめしていたが、リカードは理論のために資本という事実を看過し犠牲にしてしまった。
 
一方、スミスは、結果的には労働価値説を放棄してしまったのであるが、重要な問題提起をした点でリカードにまさっていた。
 
 スミスのリカードにたいする優位は、資本主義が確立した時代に生きたリカードが資本主義以外の社会構成体を考えることができなかったのにたいして、スミスは不十分ながらも歴史的な視点をもっていたからである。
 
 いずれにせよ、スミスとリカードがそれぞれ矛盾におちいっただけではなく、古典派経済学それ自体が矛盾し分裂してしまった。
 
そして、この問題の真の解決をなしとげたのが、マルクスであり、その際労働力の売買の分析が決定的な意味をもった。
 
 
引用:
経済学と弁証法   平野喜一郎著
大月書店 1978年
  • No Name Ninja

資本とは社会的・歴史的生産関係である

2009-12-06 21:35

P55~56
 
 こうして、一方における生産手段の所有、他方における労働力だけの所有という関係がなければ、労働力は商品にはならない。
 
だが、労働力が商品として存在しなければ、剰余価値の生産はありえない。剰余価値の生産、つまり価値増殖がなければ、資本もまたありえない。あの出発点の貨幣は、自己増殖の運動をくり返すことによってはじめて資本となったことを想起しよう。
 
 したがって、出発点の貨幣が資本に転化できるのは、貨幣が何か独特の魔法を行うからではない。貨幣はあくまでも貨幣であり、そのままでは資本とはなりえない。
 
貨幣は、一方における生産手段の所有、他方における労働力だけの所有という関係の中におかれて、はじめて資本に転化できるのである。つまり、貨幣は、生産手段をめぐる特定の生産関係の中におかれてはじめて自己増殖する価値=資本となることができる。
 
 つまり、実際に労働に従事する大量の人間から生産手段が分離されているという状態、言い換えれば、生産手段をめぐって所有と非所有の関係に社会が分裂している状態、この状態のもとではじめて資本は資本となることができる。
 
したがって、資本は、その意味で人と人との関係を表現する概念であり、資本対賃労働という社会的生産関係を意味する概念なのである。
 
 同時にまた、資本は社会的生産関係であるだけでなく、歴史的生産関係でもある。
 
資本と賃労働の関係は、牛と牛が食べる草との関係と違って、自然が生みだしたものではない。また、歴史上のあらゆる時代につねにあった関係でもなければ、むかしむかし、働か者と怠け者がいて、働き者が資本の側の、怠け者が労働者の側の祖先であるといった牧歌的なおとぎ話でそれを説明できるものでもない。
 
 資本対賃労働の関係、言い換えれば、労働力と生産手段の分離という関係は、資本主義時代の初めの時期に、まさに労働者(生産者)から生産手段をとりあげることによって生みだされたものである。農民からの土地をとりあげがその中心をなしていた。
 
こうして、大量の人間が突然、力づくで生活の基盤である土地などの生産手段を奪われ、都市や工場地域に無一文で放り出された。このできごとは、資本対賃労働の関係を最初につくりだしたものとして、「本源的蓄積」と呼ばれている。
 
 資本とは、人間の歴史の中にその始めをもち、したがって終りをもつに違いない一時代の生産関係なのである。
 
 
 
引用:
経済原論
有斐閣Sシリーズ
第3章(平井規之)
  • No Name Ninja

現代資本主義の基本的経済法則(2)

2009-12-05 12:59

P9~11
 
 剰余価値の源泉の問題は、資本主義社会における諸矛盾と階級闘争とのもっとも深い根をあばき出し、資本主義の搾取者的本質を明るみにさらけ出すものである。
 
そして、全世界の階級意識をもった労働者に資本主義的搾取の本質を理解させたのは、じつに、剰余価値の法則の発見であった。
 
 剰余価値をそれの特殊的形態たる利潤・利子・地代から独立させ、一般的形態としての剰余価値の概念の科学的規定を与えたマルクスは、剰余価値は価値法則が破られる結果えられるとしたかれ以前の経済学者とは反対に、剰余価値の生産はけっして価値法則を破ることによって達せられるのではなく、かえって、価値法則にもとづいて実現されることを科学的に証明した。
 
そして、マルクスは、「剰余価値の生産または貨殖は、資本主義的生産様式の絶対的法則である」こと、「資本の価値増殖、したがってまた剰余価値の創造が・・・資本主義的生産の推進的精神である」こと、を確認した。
 
 剰余価値の生産は、資本主義的生産固有の内容であり目的であるから、この法則は、資本主義的生産の「すべての主要な側面およびすべての主要な過程を規定」している。マルクスは、剰余価値の理論にもとづいて、資本主義的生産のすべての経済法則と範疇との真の本質を暴露し、剰余価値の生産が資本主義経済にとって決定的な意義をもっていることを明らかにした。
 
この理論にもとづいて、マルクスは、資本とは生産された生産手段の総体であるというような物神的表象をうち破って、資本とは物そのものではなくて、まさに生産関係であること、資本の存在は賃労働の存在と不可分に結びついていること――「資本は賃労働を前提とし、賃労働は資本を前提とする」――、商品や貨幣はそれが剰余価値の生産に参加する場合にのみ資本となるということ、を解明した。
 
 
引用:
経済学の基礎   横山正彦著
東大学術叢書6  1955年3月31日発行

  • No Name Ninja

現代資本主義の基本的経済法則(1)

2009-12-05 11:29

P5~7
 
 いうまでもなく、資本主義的生産の本質は、資本主義的利潤の追求のために生産することであり、資本主義的利潤の基礎は剰余価値の搾取である。
 
ところが、価値法則とは、社会的に必要な労働の量が商品の価値の大きさを決定し、商品はこの価値の大きさに応じて交換される、という法則であるにすぎない。
 
 この法則は、まず第一に、商品生産の法則であり、資本主義以前の単純商品生産のもとでも存在したし、また、資本主義が打倒されたのちにも、商品生産が存在するかぎり、やはり存在する。したがって、それは、資本主義に特有の法則ではない。
 
なるほど価値法則は、商品生産が支配的な地位を占める資本主義社会において広範な作用範囲をもって生産および流通の規制者となっており、資本主義的生産の発達にたいして非常に大きな役割をはたしている。しかし、価値法則そのものは、けっして、資本主義的利潤の追求のための生産という問題を含んでおらないし、また剰余価値搾取の問題も含んでいない。
 
 しかるに、わが国のマルクス経済学者は、これまで、明示的にまた暗黙のうちに、資本主義の基本的経済法則は価値法則であることを主張し、あるいは容認してきた。とりわけ、いわゆる「生産力」理論の立場に立つ反封建主義=近代主義の傾向をもつひとびとにおいて、「価値法則の貫徹」という理解と表現が好んで用いられた。
 
この表現のもつ魅惑的な魔力は、マルクス=レーニン主義の正しい実践的立場に立とうとする経済学者をもとらえ、このような理論的傾向にたいする的確な批判をにぶらせてきた。
 
このような理論的傾向への感染は、かならずしも、マルクス主義者と自称しながら、労働者階級・勤労大衆のほんとうの生活状態にたいするきびしい実践的感覚を欠き、闘争への実践を回避して、理論のための理論にふけっていることのできる、多分にサロン・マルクシスト的なひとびとに限られていたわけではなかった。

引用:
経済学の基礎   横山正彦著

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  • No Name Ninja

資本主義的商品生産(4)

2009-12-04 16:42

P8~9
 
 かくして、商品交換の発展と同時に、商品の二要因が作用し、価値が交換の量的比率を規制する。すでに価値は抽象的人間的労働であることを説明した。これは商品に支出した労働の等一性、共通者として抽象されているかぎり、その商品の生産に社会的に必要な労働あるいは労働時間と考えてよい。この社会的必要労働が商品の価値を規定するのである。この価値が商品の生産と交換を根本的に規制し、法則として作用する。
 
 したがって、この価値法則が商品生産を全面的に規制するような段階に達するとき、はじめて商品生産は一般化されるし、次のような二点が浮上する。
 
 第一は商品生産の無政府性にたいする調整作用である。社会的分業は私的労働すなわち生産手段の私有制を前提とする、分散的な生産の社会的相互依存体制であり、したがって商品生産は無政府的である。この無政府性にたいして価値法則は一つの外的・強制力として調整作用する。このメカニズムは次章で詳しく論ずることとする。
 
 第二は価値が自立化すなわち貨幣に結晶して(この点も詳説は次章にゆずる)、価値が富の対象となることである。
 
先述したように、価値は人間労働の支出であり、すべての商品に共通する性格をもつ。いわば価値は労働生産物が社会へ登場するのに並行して、それに社会的性格を付与し、他のすべての商品と代替できる権利を与えたのである。
 
生産物が使用価値に限定されるかぎり、その生産物にたいする欲求は対面者の気分に左右され、交換は局部的である。しかし今や生産物は商品として使用価値とともに価値をもつ、社会的性格を付与されたのである。しかも価値は貨幣に結晶し、この価値の現象形態としての貨幣は、いっさいの商品と無限の代替性をもつにいたる。価値の普遍的性格が完成する。
 
こうして発展した商品生産は、この価値―貨幣―富を求めて、稼動し始める。商品生産が一般化するような資本主義社会が、富に拝跪して、拝金主義となるのは、このためである。
 
 
 
引用:
資本主義発展の基本理論  金子貞吉著
青木書店 1980年
 
 

  • No Name Ninja

資本主義的商品生産(3)

2009-12-04 16:38

P7~8
 
 資本主義社会では、生活資料をはじめ財貨は商品として現われてくるようになり、商品はわれわれにとって富であるかのようになる。
 
先に述べた価値を求める商品生産とは富を商品において求める社会になったということでもある。そこで、富とはなにか、価値とはなにか、この過程を少しふりかえってみよう。
 
先述したように、生産された財貨が交換される度合いは社会の生産力に照応する。
 
端初的には物々交換として財貨=労働生産物は交換にあらわれてくるが、これはまだ自分の生活手段生産の補填的な行為である。たとえば内陸で穀物をつくる生産者が、自らは生産しえない生産物(塩のようなもの)を海辺地域の生産者と相互に相異なる物を物々交換するような行為がそれである。
 
このような端初的な交換においてすら、その交換を量的に規定するものがなければ、異質物の相互交換は実現しない。相対する生産物には、その自然的属性(使用価値)とは異なる共通者(価値)がふくまれており、この共通者が両者の交換の量的比率を規定する。
 
マルクスはこの価値が、労働生産物という性格にねざすことから分析をはじめ、価値の本性をつきとめたのである。
 
あらゆる生産物にはそれぞれ一定の労働が投下されており、この投下労働が価値の根源である。
 
しかしそれが価値として、あらゆる生産物にふくまれる共通者となり、生産物の交換を規定する普遍的性格をもつためには、自らが社会的行為であるという実を示さなければならない。単に労働を支出したというのでは、その投下労働はまだ私的な行為であって社会的に有用な行為ではないし、価値たりえない。
 
生産物に支出された私的労働が社会的性格を示すことができるようになるのは、生産物が頻繁に、広範に交換されるようになり、交換が生活の必要条件となってからのことである。
 
というのは、社会全体が商品交換を媒介として結合され、あたかも社会全体として必要生産物を生産するような状態が生まれてくることである。
 
個々の生産者は特定の生産物をつくりながらも、自ら生産しない他の異質の生産物と相互に交換して、多様な質の生活物資を獲得できる。こういう生産の社会的相互依存関係をわれわれは社会的分業とひとまずよぼう。
 
この社会的分業が発達すると、それらの生産者の個別的な私的労働は、社会的総労働の一部分たる役割を果たすことになり、この私的労働は二重の性格をもつこととなる。
 
一つは、一定の具体的形態の有用物をつくるという面での具体的有用労働である。もう一つは、労働の社会的性格である。
 
後者は、交換においては生産物のもつ異質性が捨象されて、人間の支出した労働という共通な性格をふくむものとして、抽象的人間的労働である。しかも、それは交換によって社会的分業の一環たる実を示すことで、そうである。
 
したがって商品交換がおこなわれるようになると、労働は二重の性格をもつこととなる。さきに述べた商品の使用価値と価値は、このような労働の二重性を反映したものである。
 
 
 
引用:
資本主義発展の基本理論  金子貞吉著
青木書店 1980年
 
 

  • No Name Ninja

資本主義的商品生産(2)

2009-12-04 08:48

P6~7
 
資本主義商品生産は、単なる商品生産ではない。社会の一部分でだけ労働生産物が商品になるような段階は越えているのである。
 
生産者が自己の生活を補填するために、自分が生産しない他の生産物と交換するとか、あるいは余剰物を売りだすとかいうふうに、偶然に商品が現われるのではない。社会の生産物が全般的に商品になっているような発展した商品生産である。
 
資本主義段階では、労働生産物は広い範囲で商品として生産され、交換されるようになる。もう商品生産は個別的・部分的に存在するのではなくて、一般化しているのである。
 
したがって商品が社会の隅々に浸透しており、社会的生産は商品生産となり、労働生産物は商品形態をとるという段階にまで発展した商品生産を資本主義的商品生産と考えるのである。マルクスは次のように『資本論』の随所で、くり返し述べている。
 
「生産物のすべてが、また単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、・・・まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされるであろう。」
 
「資本主義的生産の基礎の上では、商品が生産物の一般的な姿になり、生産物の大部分は商品として生産され、」
 
このような発展した商品生産の一般化ということは、どういう性格をもっているだろうか。
 
この労働生産物が商品化する,この商品生産が社会の隅々まで拡がるということは、もうこの生産が単に他の生産物との交換を目的とする水準を越えて、じつは一つの価値を求めて、すなわち売ることを目的とした生産になっているということを意味しているのである。
 
資本主義的生産はこの価値を求めての商品生産であり、商品が価値の凝固物となっているのである。マルクスは『資本論』の冒頭で、次のような名言を述べている。
 
「資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの『巨大な商品の集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。」
 
 
 
引用:
資本主義発展の基本理論  金子貞吉著
青木書店 1980年
 
 

  • No Name Ninja

資本主義的商品生産(1)

2009-12-03 12:27


P5~6
 
 資本主義社会は商品生産社会であるということが、先の引用では第一に指摘されている。
 
われわれ人間は日常の生活資料をなんらかの方法で獲得しなければ生存しえない。古い時代は自然物を採取するという単純な方法で、生活物資を獲得した。次には自ら手を加えて生産するという方法に発達した。
 
それが現代になってみると、身のまわりの一切の品物は、もう手製のものはない。ほとんど総ての生活物資は、他所でつくられたものであり、それを購入したものである。われわれは、生活物資はもはや自分でつくることもなく、買うことによって獲得しているのである。すなわち生活物資はいまやすべて商品としてのみ獲得されるのである。
 
 このことは、裏返していうならば、この生活物資をつくり、供給する生産者は、商品を生産しているのであって、自己の直接的な生活維持手段として物資を生産するのではないということである。
 
生産物はいまや商品として、売ることを目的に生産さるのである。現代は、社会の生産が商品生産であり、そういうものの連鎖として社会が成立する時代である。
 
 もちろん生産物が商品としてつくられるという時代は、資本主義社会に限定されることではない。
 
商品生産それ自体は、古い時代から、資本主義社会が発生する以前にも存在していた。だから資本主義社会をたんに商品生産社会と規定するだけでは不十分である。マルクスも、この資本主義的商品生産は次のように限定して、考えている。
 
 「資本主義的生産様式の傾向は、あらゆる生産をできるかぎり商品生産に変えることである。そのための主要手段は、まさに、あらゆる生産をこのように資本主義的生産様式の流通過程に引き入れることである。そして発展した商品生産こそは資本主義的商品生産なのである。」
 
 
 
引用:
資本主義発展の基本理論  金子貞吉著
青木書店 1980年
 
  • No Name Ninja

発展した商品生産

2009-12-03 09:06

P9~10
 
 かくして資本主義的商品生産は、売ることをすなわち価値を求めての生産になるのである。ここで再度問題を整理しておこう。
 
 資本主義社会が商品生産社会だという規定は、次の二つの意味をもっている。
 
 一つは、商品生産が一般化されて、社会の隅々まで商品交換がいきわたり、労働生産物は商品形態をとり、価値法則が全面的に作用するようになるということである。
 
 二つは、生産が売るということを目的に、価値を求めた生産になるということである。
 
しかし、このような一般的な発展した商品生産に達するのには、もう一つの前提が必要である。
 
商品生産の全面化は、無媒介的に成立するのではない。商品生産―交換すなわち商品流通の量的拡大が、商品生産の一般化をただちに導くのではない。
 
資本主義にとって商品流通の発達が歴史的前提ではあっても、それはただちに資本主義的商品生産に直結するのではない。独自の生産様式の発生が要件である。そこをマルクスは次のように考えた。
 
「資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。」
 
「労働力が労働者自身によって商品として自由に売られるようになれば、不可避的になる。しかしまた、そのときからはじめて商品生産は一般化されるのであって、それが典型的な生産形態になるのである。」
 
「資本主義的生産は生産の一般的形態としての商品生産なのであるが、しかし、そうであるのは、そしてまたその発展につれてますますそうなるのは、ただ、ここでは労働がそれ自身商品として現われるからであり、労働者が労働を、すなわち自分の労働力の機能を売り、しかもわれわれが仮定するところでは、その再生産費によって規定される価値で売るからである。労働が賃労働になるその範囲で、生産者は産業資本家になる。それゆえ、資本主義的生産は(したがって商品生産も)、農村の直接生産者もまた賃金労働者になったときにはじめてその十分な広さで現われるのである。」
 
「資本主義的生産の根本条件―賃金労働者の存在―を生みだすその同じ事情は、すべての商品生産の資本主義的商品生産への移行を促進する。」
 
商品生産の一般化が展開する前提となる独自の生産様式とは、ここに引用したように、労働力も商品化されているような商品生産段階のことである。
 
労働力が商品化される段階に達して、はじめて商品生産は高度に発達した、全面的な商品生産すなわち資本主義的商品生産に転化するのである。この労働力の商品化が前提になるということは二つの意味をもっている。
 
第一に、社会の隅々まで商品流通がいきわたるためには、封建社会の中核である自給自足的な農村が分解されていなければならない。商品生産が農村にまで浸透できるようになるには、自給自足的な農民を分解して、商品生産者に変えなければならないからである。
 
第二は後述することになるが、資本主義的商品生産は価値を求めて、剰余価値生産をおこなうのであるが、それは労働力商品の存在を前提とする。
 
 
 
引用:
資本主義発展の基本理論  金子貞吉著
青木書店 1980年

  • No Name Ninja

価値法則を資本主義の基本法則とみる経済学の立場

2009-12-01 05:33

P163~164
 
 ホッブスがはじめて問題にし想像した市民社会は、自由・平等・独立の新興の市民たちの活躍する社会である。スミスは市民社会のことを商業社会とよんだ。
 
スミスの考えた市民社会は、封建的な旧社会に対立する、経済がすぐれて重要な意味を持つ社会、すなわち商品生産社会である。イギリスの市民社会は、ホッブスの時代からスミスの時代まで、すなわちイギリス市民革命の時代からイギリス産業革命の時代までに実在したといわれる。
 
だが、その時代においても実際に存在したのは、資本主義に性格づけられた商品生産社会である。ブルジョア・イデオローグたちは、商品生産社会をそれだけ抽象してとらえ、これに社会のあるべき姿をみて、これを自由・平等・独立の市民社会だといったのである。
 
 自由・平等・独立の人間が商品交換をつうじて関係する社会はけっして資本主義以前に実在したのではない。すべての生産物が商品となり、すべての人々が商品交換者となる社会こそが資本主義社会である。労働力までもが商品化し、大工業が発展し、資本主義生産様式が社会の支配的生産様式となって、商品生産社会が完成するのである。
 
 ところが、産業革命以前、資本主義生産様式がまだ支配的にならない時期、商品生産はそれだけが独立して存在するかのような外観を呈する。
 
労働者と資本家の対立がまだ歴史の舞台に登場しなかったこともその理由であろう。また階級関係も単純化せず、商品生産が部分的には自立して存在したこともその理由であろう。
 
引用:社会科学の生誕

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  • No Name Ninja

本質と現象

2009-11-30 11:57

P174~175
 
 本質は現象以外のどこかほかのところに見出されるものではなく、ただ現象のなかにだけ求められるものだということを弁証法は強調する。
 
 現象はそのなかに本質を含んでいる。そこに本質を求めればそれを獲得しうる可能性があるのであり、本質自身がまったく現実的であるように、この本質の発見・認識はこの現象を通してまったく普通の合理的推理によって可能である。
 
 もちろん本質が一度に直接に発見されるわけではないが、段階と手続を踏んだ多様な現象から得られたデータをもとにして、科学的な推理によって少なくとも本質の一面一面が発見されていくのである。
 
 だから現象はただ直接にそこに与えられただけのものではなく、その背後に客観的に現実的なものとしてのその本質があるのであり、この本質はただ現象のうちに探究され、現象に対する知覚、経験、観察、調査なしにはこの本質は発見されない。本質と現象とはそのようなものである。
 
 
 
引用:
論理学―思考の法則と科学の方法
世界思想社 1987年

  • No Name Ninja

本質をとらえること(5)

2009-11-30 11:56

P118~119
 
【よりいっそう根本的な本質】
 
 しかしわれわれはさらにその次の認識、よりすすんだ認識を必要としている。
 
よく考えてみると中曽根内閣の悪政のほかにもこれらの現象をひきおこしている本質的なものがあることに気づく。
 
それは日本独占資本のあくなき利潤追求の営利活動であり、さらにはアメリカ独占資本の動きである。そしてこの段階で必要なことは中曽根内閣の悪政と日本独占資本の活動との関連を把握することである。
 
 そうして考えてみると、独占資本の活動こそはいっそう根本的な本質の一形態であり、独占資本こそは中曽根内閣の現在の政策を遂行せしめている根本的要因であることがわかる。しかもそれは偶然のことではなく、独占資本が政府に現在の政策をとらしめていることの必然性を把握することがさらに重要であり、いっそう進んだ認識である。
 
 こうやって現象をとおして本質的なものを明らかにし、さらに多様な本質的なもののなかからなにがより根本的な本質かを明らかにすることが必要である。
 
 
引用:
現代の社会観  浜林正夫編
現代の社会科学① 学習の友社 1987年
第二章 社会と歴史についての科学
第三節       社会と歴史における本質と現象
鰺坂 真
 
  • No Name Ninja

本質をとらえること(4)

2009-11-30 11:54

P117~118
 
【より根本的なものをとらえる必要性】
 
 ところで本質的なものといっても、それはまた単純ではない。
 
本質的なものが多様な形態をとって存在しているのであって、それらをさらに分析して、それら複数の本質的なもののなかでなにがより根本的なものかを見極める必要がある。
 
 たとえば現在の日本の社会でおこっているさまざまな現象をみてみよう。貿易摩擦からきた円高で不況が深刻になりつつある。あちこちの企業で生産を縮小して人員整理が行なわれ、失業者が増加しつつある。国鉄も赤字だからといって分割・民営化が行なわれる。ところが政府は大型間接税の導入とマル優の廃止で大増税を行なおうとしている。軍事費だけは増大されGNP1%枠の突破が実行されようとしている。労働運動の右傾化も進みつつあり、賃上げを要求しない組合がでてきたりしている。いま労働者や国民にとって思わしくない現象が続出している。
 
 
引用:
現代の社会観  浜林正夫編
現代の社会科学① 学習の友社 1987年
 
 

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  • No Name Ninja

本質をとらえること(3)

2009-11-30 11:51

P115~117
 
【本質・実体・法則は認識不可能か】
 
 問題は本質・実体・法則などは本当に認識不可能なものかどうかということである。
 
先にみたように現象は本質ではない。本質は現象の背後にかくれたものである。しかし同時に現象としてすがたをあらわす。「本質は現象しなければならない」とヘーゲルもいっている。
 
つまり現象は本質ではないから、現象をみて本質と取りちがえてはならないが、同時に現象は背後の本質が自己の一部の側面を表面にあらわした姿なのだから、現象を手がかりに探求をすすめるならば、やがて本質をとらえることができるのだといっているのである。
 
 つまり本質は一気にたやすくつかまえられるようなものではないが、またこれは永遠に認識できない幻のようなものでもない。現象はいわば本質の一面なのであって、現象の認識を深め広げて、それによって得られたデータを深く分析するならば、そのなかから本質とか実体とか法則とかいいうるようなものがみえてくるのだということである。
 
引用:
現代の社会観  浜林正夫編
 
 

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本質をとらえること(2)

2009-11-30 07:17

P114~115
 
【現象の背後にかくされている本質】
 
 事実はかならずしも真実をあらわさない。つまり現象はかならずしも本質をあらわしていない。そしてしばしば現象は本質とは逆のあらわれかたをする。われわれはこのことを片時も忘れてはならない。
 
 論理的にはヘーゲルがこのことを強調したのであった。本質はそのまま現象するものではないとヘーゲルは主張し、たんなる現象に目を奪われることをいましめ、真理はたんなる表面的で一面的な現象の背後にかくされている本質に関係したことがらだと主張しました。
 
 たしかにそのとおりであって、社会現象においても、たんなる現象しかみえていないのでは理論といえるようなものは成立しようがない。
 
理論とか科学とかいわれるものは、現象の背後にさしあたりはかくされている本質とか実体とか法則とかよばれているものを、なんらかの程度において把握できていなくてはならない。
 
したがって科学方法論あるいは認識論においてはどのようにしてこの本質・実体・法則などをとらえるかということが重要な課題となるのである。
 
先に述べたように、さしあたりみえているのは現象である。しかし現象の背後にかくされている本質・実体・法則をとらえるのが科学の使命であるとするならばどうすればよいのかということである。
 
 
引用:
現代の社会観  浜林正夫編
現代の社会科学① 学習の友社 1987年

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本質をとらえること(1)

2009-11-29 11:03

P112~113
 
【ありのままに歴史をみる】
 
 社会現象・歴史現象を正しく把握し、こんごの動向を見定めるには、「ありのままに歴史をみること」が必要であり、これが社会科学の成立する前提であるとすでに述べた。
 
しかし「ありのままにみる」といっただけでは、まだ抽象的であり、一体どうすればいいのだという疑問が残るであろう。それは当然のことである。自然現象ですらありのままにみることは実は簡単なことではない。
 
 すなわち「ありのままにみる」とはいっても、さしあたりわれわれにみえるのはことがらの表面的なすがたであり、あるいはものごとの一面だけである。われわれはものごとを一度に全体的に内部構造にいたるまで把握することはできない。ここに問題があるわけである。


引用:
現代の社会観  浜林正夫編
現代の社会科学① 学習の友社 1987年

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論理の歩み(叙述)と歴史の歩み(現実)との区別

2009-11-29 05:54


P73~74
 
 
 ほんらい、科学の正しい方法というのは、対象を概念的に再構成して、それを人びとに理解させる方法のことであり、叙述の方法である。
 
マルクスは、この叙述の仕方と研究の仕方とを区別し、叙述には経済的素材の詳細な研究が前提されねばならないことを強調する。つまり、経済学のような経験科学の場合は、概念のひとり歩きとか自己展開といったことはありえないのであって、どのように先験的にみえる叙述においても、その展開の動力となっているのは、事実の研究なのである。
 
 さらに、注意すべきことは、マルクスが叙述のさいの対象の概念的再構成と対象それじたいの現実的構成とをはっきり区別していることである。
 
この区別は、叙述=論理の歩みと現実=歴史の歩みとの区別といってもよい。
 
マルクスが『資本論』で直接に追求しているのは、「近代社会」の叙述=論理の歩みなのであって、これを「近代社会」の形成史そのものと同一視することはできないのである。
 
 
 
引用:
マルクス主義の経済思想
有斐閣新書 1977年
Ⅱ『資本論』の基本性格と主要な内容
2 『資本論』の方法
執筆者・・・鶴田満彦
 
 
 
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資本論の目的(2)

2009-11-27 21:06

P46
 
本編のねらいと構成
 
『資本論』の目的
 
 マルクスの『資本論』は、「近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」(第1巻第1版序文)最終の目的としています。
 
ここでマルクスが「近代社会」といっているのは、かれが他の場所で「ブルジョア社会」とか「資本主義社会」といっているものと同じ意味であることはいうまでもありませんが、近代以前の社会にくらべて、「近代社会」は、どのような特徴をもっているのでしょうか。
 
 「近代社会」とは、血統とか個人的腕力でもなく、また土地所有でもなく、まさに「カネがものをいう」社会です。カネ、つまり、貨幣は、資本の最初の現象形態であって、「近代社会」とは、資本が主体となった、資本の支配する社会にほかなりません。
 
「近代化」によって、大多数の人々は、奴隷主の鎖とか封建領主の経済外的強制からは自由になったのですが、こんどは資本のみえない鎖につながれることになってしまった。資本が人間を支配するようになったということ、さらにその支配の仕組みがきわめて複雑で、ちょっとやそっとではわからないものになっているところに、「近代社会」の特徴があります。
 
 このような「近代社会」における資本の支配の仕組みを明らかにするとともに、資本が増大すればするほど、支配される人々も強力となり、やがてその団結の力によって、資本が人間を支配する体制そのものを変革せざるをえないことを示したものが、マルクスの『資本論』です。
 
 
 
引用:
マルクス 資本論入門
有斐閣新書 1976年

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『資本論』の目的(1)

2009-11-27 08:57

P62~63
 
 
【近代社会の経済的運動法則】
 
 『資本論』は、1867年7月25日付の第1巻初版序文のなかでマルクス自身がのべているように、「資本主義的生産様式およびこれに照応する生産関係ならぶに交易関係」を研究することによって、「近代社会の経済的運動法則を明らかにすること」を最終の目的にしている。
 
 ここでマルクスが「近代社会」といっているのは、かれが他の場所で「近代ブルジョア社会」とか「資本主義社会」といっているのと同じ意味であることはいうまでもないが、「近代社会」の重要な特質は、資本がその主体をなしているという点にある。
 
もとより、「近代社会」も、他のタイプの社会と同じように、終極的には、人間によって構成され、人間によって動かされているものにほかならない。しかし、「近代社会」、とくにその経済生活においては、必ずしも人間が主人公であり、その意味で主体であるというわけではない。
 
経済生活をささえる決定的条件である生産をいとなんでいるものが人間であることはいうまでもないにせよ、「近代社会」においては、人間が直接に生産を行なうのではなく、資本という社会関係をつうじて生産を行なうのである。
 
そして人間は、資本にたいしてどのような関係にたつかにおうじて、資本家・地主・労働者といったさまざまな社会的・階級的刻印をおされ、それぞれ資本の運動のために必要な役割を果たしている。
 
だから、「近代社会」では、運動の主体をなしているのは資本であり、人間は資本の従属物になっている。「近代社会の運動法則を明らかにすること」を最終目的にした著作に、マルクスが『資本論』という表題を与えたのは、そのためにほかならない。
 
 
 
引用:
マルクス主義の経済思想
有斐閣新書 1977年
 
 

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論理と歴史(3)

2009-11-26 14:13

P195
 
 
【論理と歴史との一致の制限性】
 
 それから、もう一つだいじなことは、論理と歴史の一致といっても、その歴史とは、資本主義内部における歴史です。
 
資本主義を認識するばあいに、土地所有からみていけば、なるほど歴史的なものからみてゆくわけですから、これほど正しいことはないように思える。しかしながら、そういう論理の順序は歴史の順序に一致しないのだと、マルクスはそういうのです。
 
ほかの制度から、封建制度から、資本主義制度へゆく、この歴史、これは、『資本論』の考察には、直接には関係ないのです。
 
『資本論』は、資本主義社会というもの、これをあたえられたものとして前提しているわけです。資本はアルファでありオメガであり、出発点である終結点である。資本というものは、その内部のあらゆる関係を照明するものである。マルクスはそう考える。だから、資本主義をあたえられたものとして前提して、その資本の細胞、商品から分析してゆくわけです。封建制社会の分析からはじめるのとは、ぜんぜんちがいます。
 
 それで、論理と歴史との一致説に反対するひとは、ここのところをとりあげて、マルクスは論理と歴史の順序は別だといっていると、そういったりする。しかし、ここのところをとりあげて、そういうのはおかしい。資本主義内部における歴史的発展、これと論理の順序との一致をみなければおかしいと思います。
 
 
 
見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①
大月書店
 
 
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論理と歴史(2)

2009-11-26 14:12

P195
 
【論理と歴史との不一致の側面】
 
 価値形態と交換過程、これは両方とも論理と歴史との一致です。
 
価値形態のところは、それを抽象的にみている。交換過程のところは、それを具体的にみている。そういうちがいはありますが。ただし、その内部をみると、論理と歴史の一致しないところが、無数にあるわけです。
 
 たとえば、相対的価値形態と等価形態。マルクスはまず、相対的価値形態だけをとりだして、これだけを考察する。つぎに等価形態を考察します。これは歴史の順序でもなんでもありません。この二つは同時的な関係です。こういう同時的な関係の分析を、マルクスはいろんなところで無数にやっています。
 
 たとえば、マルクスは、賃金の本質をあきらかにするさい、どうして賃金は労働の価格というような現象形態をとるのか、まずそれを問題にする。そういう現象形態から出発して、賃金の本質を認識する。そして、それは労働力の価値だと、そういうことがわかると、それからこんどは、どうして労働力の価値は労働の価格として現象するのかと、それをみます。この分析の過程、これなんか歴史の順序とぜんぜん関係ありません。
 
 『資本論』には、そういう非歴史的分析、こういうものが無数にあるわけです、それで、それらの面からみれば、論理と歴史とは一致しないと、こういっていいわけです。その歴史とは、むろん資本主義そのものの歴史です。それから『剰余価値学説史』は、こんどは認識の歴史をみています。マルクス自身の正しい認識にいたるまでの必然性をあきらかにしています。
 
 
 
見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①
大月書店
 

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論理と歴史(1)

2009-11-26 14:11

P194
 
 『資本論』についてみますと、論理と歴史との一致は、いろんなところにみられます。
 
【マルクスにおける論理と歴史との一致】
 
 価値形態論のところも、そうなんです。あれはすばらしい。第一形態から第四形態まで、あれは概念と定有との矛盾ですすんでゆくと、こういってもよいわけです。
 
価値というのは、あらゆるものとの同等性です。ところが、第一形態では、一つひとつの商品について、この商品はあの商品にひとしい、というわけです。これはあきらかに価値概念に矛盾しています。価値は商品の本質、商品概念です。それと価値の定在とが矛盾しているわけです。
 
これを批判するのは、天上のSollenで批判するのでなしに、価値概念からみるとその定在は不十分ではないか、そういうことです。この価値形態論の展開は、現実の商品交換の歴史に一致しています。
 
 もっとも、現実の商品交換の過程といっても、商品から使用価値を捨象しておいて、価値表現という一側面だけから、それをみたものです。価値形態も交換過程のところも、両方とも現実の過程に、歴史に照応している。その点ではどっちもおなじですが、価値形態のほうは、商品から自然形態を捨象しているわけです。
 
 ところが、マルクスはあそこで、価値形態は商品の内部にある使用価値と価値の対立が外部にあらわれたものだと、そういっています。一商品の価値を他の商品の使用価値で表現すると、こういっています。
 
そこで、使用価値もでているではないか、なにも価値形態だけではなくて、自然形態もでているではないか、こういう議論もでてくると思うのです。ところが、そこがおもしろいのです。そこが宇野さんには、どうしてもわからない点なのです。
 
あそこでの自然形態というのは、価値の結晶になっているわけです。ただ、この商品があの商品にひとしい、というばあい、われわれはそれを欲望の対象としてみているわけではありません。価値の結晶としてみているんです。だからやっぱり、使用価値、自然形態は捨象されているのです。
 
 それがこんどは、交換過程になると、商品所有者が登場してくる。商品所有者は欲望をもっていますから、それではじめて、欲望がでてくる。使用価値もでてくるわけです。
 
 
 
見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①
大月書店
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価値形態論の課題(見田石介著作集 第4巻 解説)

2009-11-25 12:17

P299~301
 
 弁証法的方法がどのようなものかを『資本論』の内容に即して解明することは第四章「弁証法的方法の本質」でなされる。
 
その第一節では貨幣の発生的展開の方法が、第二節以下では資本の諸モメントの資本概念からの発生的展開の方法が考察される。
 
その際に見田氏は、弁証法的方法は単純な分析・綜合の方法とは区別されるとしながらも、「それ〔=弁証法的方法〕の要素をなすものは、科学の唯一の用具である分析、綜合以外の何ものでもない」(151ページ)こと、「弁証法的方法において実際に働いていたものが、はじめから終わりまで分析であり、弁証法的方法の威力を形成するものが分析の威力にほかならないこと」(161ページ)を強調している。
 
 さて、価値概念から貨幣形態への展開については、氏は、ここでの課題が論理と歴史との一致を証明することなどではないと述べている。しばしばみられる大方の「価値形態論」は、この個所こそ弁証法だなどといいながら、論理と歴史の一致を証明しようとしたり、後にふれる、相対的価値形態と等価形態との「矛盾」を云々するというような見当はずれの努力をしているのである。
 
 見田氏は、価値形態論の展開は、貨幣が商品であることの認識のうえに、商品がいかにして貨幣であるかを明らかにすることだと述べている。またその弁証法的意義について次のように述べている。
 
 「これは、わたしが〔久留間鮫造氏の〕『価値形態論と交換価値論』において教えられ他多くのことのなかでももっとも教えられたものの一つでありますし、かつ、たんに貨幣にかんしてだけでなく、この主語と客語との顚倒、主語と客語との同一性は弁証法の神髄を語るものであります・・・」(278ページ)。
 
 貨幣が商品であることを分析によって明らかにするだけではなく、商品が貨幣であること、すなわち商品のなかに貨幣の萌芽をみ、その発展過程を展開していること、これが価値形態論でなされていることである。
 
貨幣が商品であるという場合には、一方のなかに他者ではない、いわばはみ出す部分がある。それに対して、商品が貨幣であるという場合には、貨幣は商品の必然的産物であるから、商品と貨幣という主語と客語とはぴったり一致する。「これではじめて貨幣が完全にとらえられるのである」(186ページ)。
 
 だから、価値形態は価値概念そのもの=価値の本性からの展開であって、たんに単純な価値形態からの発生史ではない。すなわち「価値形態の分析においては、これをそれだけとして分析するのでなく、価値の本性の必然的な現われとして、価値概念からみちびき出すことが、マルクスにとってもっとも大切な、その核心をなす仕事であって、『資本論』の初版では、これを『決定的に重要なこと』だとしている」(154ページ)のである。
 
 価値概念から価値形態への展開は、したがって、第一形態の分析でなされなければならない。マルクスが第一形態の分析に価値形態の展開の大半をささげたのもその故である。
 
 このような考えに立って、氏は、簡単な価値形態の二つの極、相対的価値形態と等価形態のあいだに「矛盾」をみる見解を批判している。ここで氏は、二つの極の関係が何ら矛盾ではないとして、矛盾(現実的対立)と抽象的対立との区別の重要さを強調する。
 
 矛盾とは「『全体』をめぐってそれを肯定するものと否定するものとの対立」(167-8ページ)、「現にある対立の統一を肯定するものと否定するものとの対立」(168ページ)、「一定の形態の両過程の統一をめぐって、それを維持する力と破壊する力との対立」(169ページ)である。
 
それは上と下、東と西というような抽象的対立とははっきり区別されなければならない。矛盾関係にあるブルジョアジーとプロレタリアートのたたかいからは社会主義社会という新しいものが生まれる。だが、相対的価値形態と等価形態との対立は価値形態という事態そのものを何ら変化させない。その対立が古いものを消滅させ新しいものを生みだす場合にこれを矛盾というのである(本著作集第一巻「対立と矛盾」参照)
 
 両者の関係が矛盾だということは、価値形態論のもう一つの意義をも失わせてしまう。マルクスはここで貨幣が商品生産社会の必然的産物であり、両者が不可分の関係にあることを証明した。当時、商品生産はそのままにして貨幣の廃止を主張するプルードンらの誤りを批判する必要があったからである。貨幣が商品と切り離しえない共存関係にあること、そのことをもっとも簡単な価値形態から貨幣への展開においてしめすことがもう一つの課題であった。
 
 以上のことから、簡単な価値形態の把握はつぎの二つのことをあわせて把握したものである。
 
一つは、それを価値概念の必然的な現象形態としてつかむこと、もう一つは、その現象形態の内部の二つの極の間の必然的関係をつかむことである。すなわち「二つの側面を事物の必然的な現象形態として証明することと、それらの二つの間の側面の相互前提関係を証明すること、これが一つの事物の構造を科学的にとらえるもっとも基礎的な仕方である」(177ページ)。
 
 『資本論』の全体の弁証法も、そのもっとも抽象的な形では、資本概念からその必然的な形態を捉え、その形態の内部の二側面、可変資本と不変資本、絶対的剰余価値の生産と相対的剰余価値の生産、資本による剰余価値の生産と剰余価値による資本の生産等々、の相互関係をとらえてゆくものである。
 
 
 
 
見田石介著作集 第4巻
解説(平野喜一郎)
大月書店

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商品の矛盾は資本をうみうるか

2009-11-25 12:16

P111~112
 
 経済学の「弁証法的方法」が、資本を商品から内的必然的に展開するものだ、という場合に、商品の矛盾によってこれをおこなうのだ、ということはよく言われることである。
 
しかしそう言われる場合に、不思議なことに商品の矛盾をとりあげてみて、その主張を実際に証明した議論はこれまでに一度もない。もしいい加減な類推でいうのではなく、商品の矛盾を実際に考えてみれば、それが商品を資本に発展させるとは言えなかったはずである。
 
商品の矛盾は、それは価値としては他のどんな商品とも交換しうるのに、使用価値としてはただ特定の商品としてしか交換できないという点にある。同じことだが、これは別の方面からみれば、商品生産社会での生産は一面では生産の永遠の法則にしたがって社会的生産でなければならないのに、それは直接には私的生産である、という点にある。商品の根本矛盾はこれ以外の何ものでもない。だがいったいこの矛盾は、商品生産を資本制的生産に移行させる原動力となるのであろうか。そうでないことは明らかである。
 
 この商品の根本矛盾は、資本制的生産をうむのではなく、資本制的生産そのものの基礎的な矛盾であり、資本制的生産によってそれが解決されるのでなく、かえってそこではじめて全面的に発展させられる矛盾なのだから。
 
 資本制的生産は資本制的な商品生産でもあり、しかも商品生産の一般化する純粋な商品生産社会でもある以上、それは当然のことであろう。そして資本制的生産のこの商品生産一般としての矛盾は、その独自の一側面として、それとともに発展し、生産手段の私有と私的生産の止揚を促進し、やがて社会主義社会によってはじめてその解決をうるものである。
 
 その点からいえば商品の矛盾は、社会主義社会をうみ出す原動力の一つだ、ということができる。資本制的生産を発生させる原動力は、商品生産の矛盾にではなく、封建社会の胎内に成長するこの生産関係そのものの体制的な矛盾に求めるべきであろう。
 
 だが一方、商品の矛盾は、その特定の段階における特殊的な矛盾としては、まず商品の一つ一つは一般的等価としての意味をもつが、しかしまさにこのようにすべての商品が自らを一般的等価とすることによって、どの商品も一般的等価となりえないで、特殊的等価となっているという矛盾である。
 
 しかしこの矛盾も資本をうみ出す原動力であるのではなく、同じ単純商品流通の範囲内で、貨幣をうみ出す原動力であるにすぎない。そして商品の根本矛盾そのものは、これによって新しい運動形態を獲得するだけで、貨幣の出現によって、それが止揚されるわけではない。それ以上の商品流通の発展の一定の時期における特殊的な矛盾は、すべて貨幣のさまざまな機能と商品流通の新しい運動形態をうみ出すだけで、もちろんそれらが資本をうみ出すわけではない。
 
 実際に商品の矛盾を吟味してみれば、商品はその矛盾によって資本に内的必然的に発展するという主張が、まちがった先入見を習慣的に言っているだけのものであることがわかる。商品生産そのものが、価値法則の作用そのものが、資本関係をうむのではない。すなわち価値、商品、貨幣は資本を含蓄していないのである。
 
 
 
 
見田石介著作集 第4巻
大月書店

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