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こうして、一方における生産手段の所有、他方における労働力だけの所有という関係がなければ、労働力は商品にはならない。
だが、労働力が商品として存在しなければ、剰余価値の生産はありえない。剰余価値の生産、つまり価値増殖がなければ、資本もまたありえない。あの出発点の貨幣は、自己増殖の運動をくり返すことによってはじめて資本となったことを想起しよう。
したがって、出発点の貨幣が資本に転化できるのは、貨幣が何か独特の魔法を行うからではない。貨幣はあくまでも貨幣であり、そのままでは資本とはなりえない。
貨幣は、一方における生産手段の所有、他方における労働力だけの所有という関係の中におかれて、はじめて資本に転化できるのである。つまり、貨幣は、生産手段をめぐる特定の生産関係の中におかれてはじめて自己増殖する価値=資本となることができる。
つまり、実際に労働に従事する大量の人間から生産手段が分離されているという状態、言い換えれば、生産手段をめぐって所有と非所有の関係に社会が分裂している状態、この状態のもとではじめて資本は資本となることができる。
したがって、資本は、その意味で人と人との関係を表現する概念であり、資本対賃労働という社会的生産関係を意味する概念なのである。
同時にまた、資本は社会的生産関係であるだけでなく、歴史的生産関係でもある。
資本と賃労働の関係は、牛と牛が食べる草との関係と違って、自然が生みだしたものではない。また、歴史上のあらゆる時代につねにあった関係でもなければ、むかしむかし、働か者と怠け者がいて、働き者が資本の側の、怠け者が労働者の側の祖先であるといった牧歌的なおとぎ話でそれを説明できるものでもない。
資本対賃労働の関係、言い換えれば、労働力と生産手段の分離という関係は、資本主義時代の初めの時期に、まさに労働者(生産者)から生産手段をとりあげることによって生みだされたものである。農民からの土地をとりあげがその中心をなしていた。
こうして、大量の人間が突然、力づくで生活の基盤である土地などの生産手段を奪われ、都市や工場地域に無一文で放り出された。このできごとは、資本対賃労働の関係を最初につくりだしたものとして、「本源的蓄積」と呼ばれている。
資本とは、人間の歴史の中にその始めをもち、したがって終りをもつに違いない一時代の生産関係なのである。
引用:
経済原論
有斐閣Sシリーズ
第3章(平井規之)
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