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いうまでもなく、資本主義的生産の本質は、資本主義的利潤の追求のために生産することであり、資本主義的利潤の基礎は剰余価値の搾取である。
ところが、価値法則とは、社会的に必要な労働の量が商品の価値の大きさを決定し、商品はこの価値の大きさに応じて交換される、という法則であるにすぎない。
この法則は、まず第一に、商品生産の法則であり、資本主義以前の単純商品生産のもとでも存在したし、また、資本主義が打倒されたのちにも、商品生産が存在するかぎり、やはり存在する。したがって、それは、資本主義に特有の法則ではない。
なるほど価値法則は、商品生産が支配的な地位を占める資本主義社会において広範な作用範囲をもって生産および流通の規制者となっており、資本主義的生産の発達にたいして非常に大きな役割をはたしている。しかし、価値法則そのものは、けっして、資本主義的利潤の追求のための生産という問題を含んでおらないし、また剰余価値搾取の問題も含んでいない。
しかるに、わが国のマルクス経済学者は、これまで、明示的にまた暗黙のうちに、資本主義の基本的経済法則は価値法則であることを主張し、あるいは容認してきた。とりわけ、いわゆる「生産力」理論の立場に立つ反封建主義=近代主義の傾向をもつひとびとにおいて、「価値法則の貫徹」という理解と表現が好んで用いられた。
この表現のもつ魅惑的な魔力は、マルクス=レーニン主義の正しい実践的立場に立とうとする経済学者をもとらえ、このような理論的傾向にたいする的確な批判をにぶらせてきた。
このような理論的傾向への感染は、かならずしも、マルクス主義者と自称しながら、労働者階級・勤労大衆のほんとうの生活状態にたいするきびしい実践的感覚を欠き、闘争への実践を回避して、理論のための理論にふけっていることのできる、多分にサロン・マルクシスト的なひとびとに限られていたわけではなかった。
引用:
経済学の基礎 横山正彦著
価値法則をもって資本主義の基本的経済法則なりとする理解は、価値法則の貫徹という表現の麻酔力によって、それこそが真に客観的科学的分析であるかのごとく陶酔せしめ、しばしば、現実の実践的感覚にもとづく新鮮な批判力を麻痺させたが、それはつぎのような二重のあり方において有害なものであった。
一つは、価値法則の「歴史的な」貫徹という理解の仕方のうちに、とくに日本社会におけるもろもろの封建的残存物との闘争=その清掃の意味を含めたものであった。しかし、それは、多面、アメリカ帝国主義の支配下に従属しながら、人民にたいする最大限の収奪をたくましくしている独占資本圧制の現段階においてすら、資本主義の「合理的な」「進歩性」にたいして期待をいだかせるような有害な幻想をふりまくものであった。
もう一つは、マルクス経済学の全理論構造をただ価値法則一般の「論理的な」貫徹という無色の理解に解消することによって、マルクス経済学の「礎石」(レーニン)であり「核心」(エンゲルス)であるところの剰余価値理論の意義を――したがってまた、資本主義の搾取者的本質を――不明確にするところにあった。
引用:
経済学の基礎 横山正彦著
東大学術叢書6 1955年3月31日発行
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