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『資本論』についてみますと、論理と歴史との一致は、いろんなところにみられます。
【マルクスにおける論理と歴史との一致】
価値形態論のところも、そうなんです。あれはすばらしい。第一形態から第四形態まで、あれは概念と定有との矛盾ですすんでゆくと、こういってもよいわけです。
価値というのは、あらゆるものとの同等性です。ところが、第一形態では、一つひとつの商品について、この商品はあの商品にひとしい、というわけです。これはあきらかに価値概念に矛盾しています。価値は商品の本質、商品概念です。それと価値の定在とが矛盾しているわけです。
これを批判するのは、天上のSollenで批判するのでなしに、価値概念からみるとその定在は不十分ではないか、そういうことです。この価値形態論の展開は、現実の商品交換の歴史に一致しています。
もっとも、現実の商品交換の過程といっても、商品から使用価値を捨象しておいて、価値表現という一側面だけから、それをみたものです。価値形態も交換過程のところも、両方とも現実の過程に、歴史に照応している。その点ではどっちもおなじですが、価値形態のほうは、商品から自然形態を捨象しているわけです。
ところが、マルクスはあそこで、価値形態は商品の内部にある使用価値と価値の対立が外部にあらわれたものだと、そういっています。一商品の価値を他の商品の使用価値で表現すると、こういっています。
そこで、使用価値もでているではないか、なにも価値形態だけではなくて、自然形態もでているではないか、こういう議論もでてくると思うのです。ところが、そこがおもしろいのです。そこが宇野さんには、どうしてもわからない点なのです。
あそこでの自然形態というのは、価値の結晶になっているわけです。ただ、この商品があの商品にひとしい、というばあい、われわれはそれを欲望の対象としてみているわけではありません。価値の結晶としてみているんです。だからやっぱり、使用価値、自然形態は捨象されているのです。
それがこんどは、交換過程になると、商品所有者が登場してくる。商品所有者は欲望をもっていますから、それではじめて、欲望がでてくる。使用価値もでてくるわけです。
見田石介 ヘーゲル大論理学研究 ①
大月書店
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