P163~164
ホッブスがはじめて問題にし想像した市民社会は、自由・平等・独立の新興の市民たちの活躍する社会である。スミスは市民社会のことを商業社会とよんだ。
スミスの考えた市民社会は、封建的な旧社会に対立する、経済がすぐれて重要な意味を持つ社会、すなわち商品生産社会である。イギリスの市民社会は、ホッブスの時代からスミスの時代まで、すなわちイギリス市民革命の時代からイギリス産業革命の時代までに実在したといわれる。
だが、その時代においても実際に存在したのは、資本主義に性格づけられた商品生産社会である。ブルジョア・イデオローグたちは、商品生産社会をそれだけ抽象してとらえ、これに社会のあるべき姿をみて、これを自由・平等・独立の市民社会だといったのである。
自由・平等・独立の人間が商品交換をつうじて関係する社会はけっして資本主義以前に実在したのではない。すべての生産物が商品となり、すべての人々が商品交換者となる社会こそが資本主義社会である。労働力までもが商品化し、大工業が発展し、資本主義生産様式が社会の支配的生産様式となって、商品生産社会が完成するのである。
ところが、産業革命以前、資本主義生産様式がまだ支配的にならない時期、商品生産はそれだけが独立して存在するかのような外観を呈する。
労働者と資本家の対立がまだ歴史の舞台に登場しなかったこともその理由であろう。また階級関係も単純化せず、商品生産が部分的には自立して存在したこともその理由であろう。
引用:社会科学の生誕
産業革命を経て資本主義社会が確立すると、商品生産は、部分的には存在していた自立性を失い。いよいよ資本主義社会の基礎としての商品生産関係として存在するようになる。
だが商品生産関係は依然として資本主義的生産関係の表面の現象として存在し、実体としての資本関係をおおいかくしてしまう。
そこでは、資本家と労働者との関係は、たんに商品所有者同士の関係であるかのようにみえ、搾取関係は存在しないように思われる。この意味でマルクスは商品の独立性は仮象だといったのである。いかに商品生産が独立しているように見えてもそれはみせかけにすぎないというのである。
*しかるに「市民社会とは、何よりもまず人間が市民としておたがいに交通する社会」「市民とは、自由平等な法主体」(『市民社会と社会主義』)だと考える平田清明氏は、市民社会を搾取関係・階級関係から切りはなしてしまう。これは資本主義社会を自由・平等な社会と幻想したブルジョア・イデオローグの立場である。氏は、マルクスの商品論こそ「市民社会」の理論的な考察だという。これまた、資本主義社会をたんなる商品生産社会とみ、価値法則を資本主義の基本法則とみる古典派経済学の立場である。
引用:
社会科学の生誕 平野喜一郎著
大月書店 1981年
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